HUNGARIAN FEAR OF HAL

HAPPENING

先月お伝えしたアートとコンピューターサイエンスとの心暖まるコラボレーションとは対照的に、今月のブダペストからは、コンピューターに対するアーティストの薄いベールに覆われた敵意という、正反対なものを表現している面白いエキシビジョンについてお伝えしようと思う。


展示された絵画の雰囲気は奇妙で、ハンガリー人の孤立感、国際的なトレンドから距離を起き、それと並行するか全く別の道を進むというマジャール人の傾向を反映していた。

ヤノシュ・コサは、私が今まで目にした中で最も自意識過剰な画家気質を表現した絵画作品を制作している。それら絵画は、通常のヨーロッパの物の見方のパターンに従い、18世紀のイラストレーションに見られるような主題を題材としている。古典的なトーガ(古代ローマ市民が着た外衣)など歴史的なドレスを着た人物を描き、あからさまに有名な絵画の模倣が見られる。それら絵画には、ベラスケスやドラクロワに見られるようなディテールはなく、人物に付随するその時代の家具やツール、遊び道具などは描かれていない。
だが、それぞれの絵画には、フォーマルなシーンにロボット、コンピューターが描かれている。

コサがそれら絵画の時代背景を特定の時代に設定していないために、意図したよりは時代錯誤な感じを与えていない。
彼の代表的な絵画では、上品だが若干無表情な美しさを持った若い女性が描かれ、何もないアーティストのスタジオを真似たような部屋で、19世紀以前の衣服を着ているものもいれば、スタンダードなギリシャのトーガのような服を着ているものもいる。
その何もないスタジオは、おそらくキリコ、ダリ、マグリットからきたのだろう。このシーンの何処かには、1950 年代の空想小説の挿し絵からそのまま飛び出してきたようなロボットが描かれていて、ジョージ・ルーカスがスターウォーズにコミックロボ執事として C3POを登場させた時には既に皮肉なジョークの非反語的な描写として描かれている。スタンリー・スペンサーの戦前の絵画のミックスのような感じで、お洒落さを排除したタマラ・レンピカの1920年代の肖像画のような印象も与えている。

ヨーロッパのこの地区で時折見られるこれら皮肉の併置は、全く可笑しいものではない。ある絵画では、線画で描かれたコンピューターのある部屋で唯一の立体的なオブジェクトとして3人のやせ衰えた裸の男達が描かれ、非人間的な非現実が彼等を取り巻いている。

コサは、彼の絵画の中で、コンピューターは冷たく、非人間的、不愉快に曖昧で冷淡だという彼自身の苦悩のメッセージを表現している。彼は、そのどの要素も好きではないのだ。

これを面白くしているものは、多くの意味でハンガリーが、コンピューターに熱中した20世紀の真ん中にいたという点。おそらく、アラン・チューリングと同じくらい重要なこととして、ハンガリー人数学者、ヤノシュ・ヴォン・ニューマンが、プリンストンのチームが1940年代に ENIAC や IAS などのバルブベースの初期コンピューターを制作する手助けとなるゲーム哲学を発明している。

ニューマンの、メモリを処理ユニットの外側に入れるという提案は、 1980年のスーパーコンピューターと平行処理の時代までほとんどのコンピューターのデザインを形成し、現行の多くのコンピューターの構造に影響を与え続けている。ハンガリーは、その言語の衒学的な文法や、数学に焦点を置いた教育システムに関わらず、いまだ多くのプログラマーを生み出している。
コサは、そのどれでもない。彼はそう思い込んでいるのだ。
これら強烈で派生的な絵画は、コサが意図した暖かさや感情とコンピューターの冷淡さや非人間性の対比を目的としている。だが、それらを良く見てみると、何か他のことが起こっているのが分かる。
彼の描く人間のキャラクターは、堅苦しく陳腐だ。それらの視覚的イメージが、私達の感情の中に退屈なイメージの集まりの中に佇む人間性と感情を呼び起こすと考えられている。彼の絵画の中の人々は、彼が嫌い恐れるコンピューター装置の中のコードと同じく、生気のないシンボルなのだ。

各絵画の中で表現されている、コンピューターがいかに人間の人間性を奪っているかという主張は、私達に疑いを抱かせる。もしコサが絵画の中で人間と非人間の対比を意図していなかったら、あるいは、もし彼がコンピューターの冷淡さを歴史的な人間性の賞賛の中に組み込もうとしなかったら、彼の絵画はより困惑するものになっただろう。魅力的な若い女性は、はっきりと私達にとって魅力的に見えることを意図し、彼等が実際そうであるように退屈で平均的には見せていないのだ。
もしその対比が人間対機械の対比を意図しているとすれば、私達は、なぜ人間がそれほどまでに機械的で面白みがなく模倣的に描かれているのだろうか、と疑問を抱かずにはいられない。

コサは、間違いなくメッセージを持っている。だが、それは目に見えるメッセージではないのだ。
これら絵画は、ヤノシュ・コサにもう1つの人生があったとしたら、彼は画家ではなく機械コードのスクリプトの専門家になっていたであろうと私に語りかける。それら文学的、動詞的な絵画を見るにつけ、なぜハンガリーがビジュアルアートに弱く、数学やコンピューター自体など、直線的な考え方に強いのかという理由が見えてくる。

このエキシビジョンを見る価値のあるものにしているのは、作品が直線的なものと視覚的なものの違いを表現している点だ。カサが私達に伝えたかったことよりも多くの興味深いことを感じることができた。

エキシビジョンは、4月28日まで、DEAK ERIKA ギャラリーで開催されている。

Text: Mark Griffith From Live Budapest
Translation: Mayumi Kaneko

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