池上高志

PEOPLEText: Yu Miyakoshi

その「自然現象」が、なぜかアートを感じさせますね。

渋谷さんと最初に考えたのも、そういうことに近いですね。僕の場合は表現と現象の真ん中ぐらいを狙っています。よくアートで、こういう風に置いたら(目の前にあった文房具を立てて)「アート」になった、などと言ったりしますよね。そういうのはあまり僕の発想にはなくて、そういう風にさせる原因とかメカニズムからつくろう、ということが多いです。例えばテーラー・クエットの理論というのに、「トーラスからカオスへ至る道」という数学の理論があるのですが、インスタレーション作品ではその理論を体験できる。どういう現象が起こってどう変化していくか、というのは、目で見たり耳で聞いたりして体験した方がわかりやすい。理論を書き出したり読んだりして理解する、というプロセスにはない面白さや複雑さを体験できればいいな、ということでやっています。

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「Filmachine」 Concept & Composition: Takashi Ikegami, Keiichiro Shibuya (2006)

理論を頭で理解するのとは違った、アートとして伝わってくる体験があるのですね。

体全体を使いますから、情報量が多い※。自分で体験してみて初めて分かる、というのは往々にしてありますよね。アートというものは別に、そこにある種の意味論があらかじめあるわけではないですから、「アート」をやって結果として分かる、体験して初めて我々も何を作っていたかが分かる、そういうことがあると思います。それから、僕は生の自然というのがなにか気恥ずかしくて、人工的なものから自然を考えたい。だから生命そのものを扱うよりも、生命以外のもので生命を考えたくなる、というわけです。

※池上氏の研究の一つに、人を取り巻く環境でやりとりされる情報がいかにマッシブ(大量)か、ということに端を発し定義をした「マッシブデータフロー」というテーマがある。現実の世界だけではなく、人間の処理能力を越えるほどの膨大なデータが簡単に手に入るようになったメディアの世界における様々な現象や問題にフォーカスをあてている。

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「Filmachine」 Concept & Composition: Takashi Ikegami, Keiichiro Shibuya (2006)

テーラー・クエット・フローの、人工物が見せてくれるSF映画や小説のような世界観がいいと思いました。

僕にはそういうのはあんまりないんだけど(笑)、僕がつくるのは、ある種の顕微鏡みたいなものと言いますか、アンプリファイア(拡大装置)としての人工物という感じです。本物よりも寓話とか、魔術的だったりするものの方が真実を語るところが大きいと思っています。それで皆、小説を読むんですよね。小説を偽物だと感じているわけじゃなくて、そっちの方が本物だからですよね。

池上さんが作品をつくられる時には、「寓話」が生かされたりしているのでしょうか?

いや、生かされてないですよ。僕は現象としてつくっていますから。複雑系でも「ストーリーテリング」が重視されていたけど、僕にはそういった物語性とかより、多発的な解釈の方が、趣味に合うのです。普通の抽象絵画でも、具体的に何かを描いている、というわけではないですよね。例えばジャクソン・ポロックは、別に何かを表現しようとしているのではないわけです。作品に題を付けたり、制作していくうちに、ある種のメタファーに行き着くということはあると思いますけど。ポロックがやろうとしていたような意識と無意識の狭間の中にある現象ということが、作品としていくらあってもいいと思うんです。皆、自分のやっていることに対してラベルを貼りたがる。でも、そんなに何に対してもラベルが貼れるわけじゃないですよね。僕にとっては、自分のやっていることがサイエンスなのかとかアートなのか、だとか、「大学で科学を教えているけれども、アートはいつからやっていますか」とかいう質問自体はあんまし意味を持たないんですよね。好きなことをしている、としか言いようがないです。

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