フロッグ・ネーション

PEOPLE

’92年、それまではオタク的な印象だった ゲームとクラブカルチャーを融合させたイベント「東京ゲーマーズナイトグルーブ」を成功させる。そして数名の仲間達とインディーズテクノレーベル「フロッグマン・レコーズ」、 ’97年には「フロッグ・ネーション」を設立。最近では、サンライズのアニメ「カウボーイ・ビバップ」や、 ナムコのゲーム「エースコンバット3 エレクトロスフィア」にも参加している佐藤大。
TV、音楽、ゲーム、テクノ、デジタルカルチャー、アニメと次々とジャンルを 横断しながら活躍する佐藤大の足跡を追う。


フロッグネーションの佐藤大さん(以下大さん)が、ライター業やレーベルの運営以外にアニメの製作に関わっていると知ったのはかれこれ2年ぐらい前。ちょうどエヴェンゲリオンが国民的大ヒットになる直前ぐらいだった。その記事を読んで興奮したのを僕は覚えている。
大さんは、日本で始めてゲームカルチャーとクラブカルチャーとを、融合したイベント「東京ゲーマーズナイトグルーブ(以下TGNG)」を成功させた人だ。その大さんが今度はアニメを作る。しかもかなりやばい物を作っていると、雑誌で自ら宣言していたのだから気にならない方がおかしい。そしてオンエアーされたアニメ「カウボーイ・ビバップ」は僕の予想を上回る出来で、今のアニメが忘れてしまっているリズムをこのアニメは確実に僕に伝えてくれた。このアニメを見る事によって大さんのすごさを再確認し、このアニメだけにとどまらずゲーム製作にまで手を延ばしているという大さんに僕は興味を持った。
今の時代、高性能なコンピュータが家電なみにバシバシ安くなり、前世代の先駆者が唱えてきたデジタル世界観がかなり現実的になってきたとはいえ、環境が整のっても好きな事をジャンルを超えながら一つ一つ形にして行くのは難しい。でもこれからの時代に必要なのは自分を中心に、回りの環境に左右されずに仕事や生活にいかにバランスを取れるかが重要だと思う。特にインターネットを使っている人達であればなおさらのこと。そこで、自分を足掛かりに好きな事をジャンルを超えて確実にこなしている大さんのこれまでの歩みを知る事によって何かをつかめるのではないかと僕は考えた。


カウボーイ・ビバップ © 1999 SUNRISE, All Rights Reserved.
「マクロスプラス」「天空のエスカフローネ」を作りあげてきたスタッフが送るTVシリーズ。監督はTVアニメは始めてになる渡辺信一郎監督。音楽は菅野よう子。まるで初代ルパン3世や、安彦良和のクラッシャーJoe、コブラ、ハーロック、洋画では「明日に向かって撃て」や、様々な気持ちいい作品を思いださせてくれる。今ではめずらしい一話完結もので、音楽と話しのテンポに酔ながら長い30分を味わう事が出来る。あまりにも気持ちよく多少の謎はあっても作品について大さんに聞く事は何もなかった。というか聞く事が無い。現在WOWOWで放送中。ビデオが2巻まで出ている。

『僕は絵が下手だったんですけど、マンガ家になりたかったんですよ。大友さんが出てきた頃で、童夢とかAKIRAの一巻が出た頃だったんですね。これはすげーとか思っていて。その時に友達に絵が上手い子がいたんですよ。その子は物語を考えるのはめんどくさいと思っていて、じゃぁ一緒にやろうよという事になって、小学校6年の時に親にワープロを買ってもらったんですね。その頃実は字も下手だったんですけど、ワープロを使って字を打って変換機能を使うと、自分が考えている事が漢字なんかに変換されて小説と似たような感じできれいに紙になって出てくるじゃないですか、それにすごい感動して。つたないけれど小説とかを書いてみようかなと思ったりしたんですね。その頃は小説のストーリーとかのメモだったんですけど、詩とかもその頃から書き始めたんですよ。その頃憧れていたのが出始めの村上龍さんや、春樹さんだったんですね。中学に入って海の向こうで戦争が始まると「コインロッカーベイビーズ」なんかを読んで、高橋三千綱の「ハローグッバイ」とか、「僕って何」を読んだりしながら、やっぱ俺って、群像新人賞をとって、野間文学賞を取って、芥川賞だろうと思う中学生だったんですよ。』

デザイナーがアップルコンピュータと出会うように、小学校6年生という早い段階で大さんはワープロと出会う。そして未来を夢みたらしい。高校にはヤンキーが多すぎるという理由で行かずに、小説と、映画、特に自主制作物にはまっていた。大学は石井聰亙監督が日大芸術学部に行っていたという理由であこがれるも、受験があるという理由と、絵が下手という理由であきらめ東邦学園という専門学校に入る。そこで TVのADのバイトをやりながら、たまに学校に通う生活が始まる。そこで一つ目の転機が訪れた。

『ひさしぶりに学校に行ったら、特別講師として秋元康さんやソールドアウトのみなさんが来るという事で、見に行ったんですね。本物だ本物だと思いながらいろいろ聞いて、見て、そうしたら最後に秋元さんが「何か質問がある人いるかな」というのだけど、ダーレも手を上げなくて、もーこのまま終わっちゃう感じだったんで、手を挙げたんですよ。その時ADやっていたんですけどつらかったんですね、文字書きたかったんですよ。「作詞家になるにはどうしたらいいんですか?」って質問をしたら、「うーん一言では言えないな。君は作品を書いてるの。」って言うから「あります」と答えると「送ってよ。」って言われて、で、自分が高校の時から書き溜めていた200編ぐらいの詩があるんですけど、それを全部その日のうちにコピーして速達でソールドアウトにボン!って送りつけたんですね。それから一週間ぐらいたって、何も言ってこないしあきらめかけてた時に、秋元さんから電話があって「君の詩面白いから一回遊びにこない」って言われたんですよ。』

大さんは、教師が「狂い咲きサンダーロード」を知らないという理由で学校にいかなくなるほどの人だったらしい。そして当時大さんが嫌っていた「おニャン子」の世界を作った作詞家の秋元康さんの事務所ソールドアウトに皮肉ながらも入る事になる。でも、丁稚として3ヶ月も家に帰れず、給料もなしという地獄のような条件を呑んだ結果だった。そして3ヶ月のつらい修行期間の間に徐々に放送作家として大さんの名前がTV、ラジオにクレジットされるようになる。

『ただ、作詞家にはなれなかったんですよ。秋元さんは作詞の仕事はやっているし、ディレクターの人も来るのだけれども誰も紹介してくれないし。こういうのは自分で探さないといけないんだなと思って。』

またも運命の巡り合わせがある。友達のライブで偶然に一気統合した人がその当時すごく人気のあった銀色夏生をプロデュースしていた業界ではすごく有名な人だった。またも自分の詩200遍をすぐに速達で送り付け、19才の時に始めて沢田研二の「この僕が消える時」を作詞する事になる。ソールドアウトに入ってからまだ3ヶ月たたない頃だった。その話しがソールドアウト中に広まると大さんの立場はガラリと変わり、もはや誰も丁稚として見る人はいなくなった。そしてすぐに、放送作家セクションから離れ、念願の作詞家セクションに入り、作詞家としてデビューしていく。

『どんどんキャリアを付けていって、ドラゴンボールの詩を書いたり、吉田栄作の詩を書いたり、ジャニーズの人と一緒に少年隊の詩を書いたり、近藤真彦の詩を書いたりするようになったんですね。作詞家としてもドラゴンボールをやった所でポーんと印税が入ってきたんですよ。ウギャーってお金で、こんなにお金もらえるの?ってことになって、今まで、5千円しかもらえない世界だったのが、作詞家っておいしーいということになって、自分が狂っちゃいいますよね。19 か20才のそんとき俺は年収一千万以上あったんですよ。』

作詞家として成功していくも会社との条件の相違により大さんはソールドアウトを離れていく。その頃ためたお金で、作詞家として関係が多かったミュージシャン友達と毎晩豪遊し、海外へ遊び回るのが続いたという。ちょうどイギリスではマンチェスターブームが起っている頃で、大さんはそれを友達と確認しにいく。その帰りの行程で始めて大さんはクラブカルチャーに触れる。

『帰りのロンドンでマーク・ウィガンがやっている「ブレイン」ってクラブにその時始めて行くんですね。それまで純粋培養の業界人間ですから、イメージとしてはディスコ。大っきらいなんですよそういうイメージ、別にナンパも興味ないし。そこではDJがテクノを回していたんですけど、今考えるとプログレッシブ・ハウスだったんですね。真っ暗でライトがパカパカしている中で無心に踊るイギリス人を見たんですよ。マンチェちょい後だったんで、アンディー・ウェザオールとかがやっていた頃で 92、3年頃ですかね。僕は始めてだったんで、ライトがパカパカってなっている所でウォーっとイギリス人が踊っているのを見て、もちろんその頃はドラッグとか知らないんですけど、みんな夢中に踊るんですね。みんな好きで踊っているんだから、俺も踊ろうかってなって、それが凄い気持ちいいんですよ。そうすると、酒とか水とかおごってくれんですよ。「お前はどこから来た?」「日本からだ」って答えると、「ニンテンドーの国から来た。」って言われて、暑いから外の中庭とかで見てると、「お前は日本人か?マリオってやった事あるかって」言われて、言われるのはゲームの話か、AKIRAとかのアニメの話で、すごいその時に意識して、それまでは日本人であることがすごく格好悪いってイメージがあるし。日本の物は格好悪いってイメージが合ったんだけど、始めて日本人ってかっこいいんだって教えてもらったんです。「お前の国はすごいもの作るよ。」って、それをアイディンティーとしてこういうクラブを日本で出来ないかなって思ったんです。その頃DJの福富幸宏さんや、マリンと仲良くなっていて、作詞家をやっていた関係ですごいミュージシャンの友達と仲良くなれて、その流れで DJにも知り合いがいるし、クラブさえ借りれば自分でやりたい事が出来るんじゃないかなって思ったんですね。』

マーク・ウィガン:90年代初期、クラブを中心に活躍をしていたペインター。日本にも何度か来日している。自分の地元名古屋にあるクラブ「ブッダ」にも彼の作品がバーカウンターの後にあった。ペイントは様々なアプローチからまた復活しつつある。写真や、ファッションイラストだけじゃ生活は面白くならないから。

当時まだまだアニメや、ゲームは子供の遊び道具で、それにはまっている奴は汚いオタクどもという偏見がついて回っていた。いくらアニメが好きで、かっこいいと思っていたとしてもそれを堂々と宣言をしたり、アニメのT-シャツを着るなんて考えられなかった時代だった。しかし、またもやかっこ良さは海外から教えてられてしまった。アニメ柄のTシャツもスケートにはまっている奴周辺からブームが起り、「I.Dマガジン」の表紙をソニックがかざるようになっていく。今までつばをはきかけるようにアニメやゲームを観ていた連中はその皮肉を当時どう感じていたのだろう。

『イギリスにいた時にマーク・ウィガンのクラブかどこかで、I.Dマガジンのテリーを紹介してもらったんですけど、つたない英語で「俺は日本でゲームを置いてあるクラブを作りたいんだ。」っと冗談っぽく言ったら、「それはすごいカッコ良いよ。俺は今度UPUという会社から日本でI.Dマガジンの日本盤を出すんだけど、そのオープニングイベントでそういうのをやれば、お前にUPUの奴紹介するから企画書だせよ。」という事になって。それから一週間か二週間ぐらい濃い時間をすごして日本に帰ってから、UPUに行って企画書を出して「こういう事がやりたくてテリーと会ったんです。」って話したら、「テリーはいつも酒飲んでそういう事を良いって言うんだよ。」って、UPUって会社は別にI.Dらしさってのはあまり関係ないらしくて、一笑にふされてしまったんですよ。俺が「アニメとかゲームとかをかっこよく紹介したい。」って言ったら、「格好悪いだろオタクなんて。」言われて出来ない。じゃぁ自分でやろうという事になって、』

イギリスでもなく海外でもなくて、大さんが始めたゲームとクラブカルチャーを結びつけたイベント「TGNG」がここ日本で成功したのは一つの救いだったと今思う。インディーズマガジンブームも始まり、日本発のプライドを持った作品が少しづつ増えていった頃で、もしこのTGNGのようなイベントがイギリスで先に行われて、それが逆輸入という形で入ってきていたら、またもや日本が作ってきたものに対して誇りを持てる事が遅れていたのではないだろうか、その頃から日本独自のグラフィックや、音楽が過剰なまでのスタンスの取り方だけれども多くなっていく。それはこれまで自国が作りだしてきた文化に対して多少なりも劣等感をいだいていた僕等にとってみれば仕方が無い事だった。そして、やっと雑誌、音楽、クラブ、ゲーム、アニメ、etcと90年代は遅いスタートながらも始まっていった。
(TGNGには、今GASBOOK等でお馴染みのNEND GRAPHIXXXも参加していて、ゲームや彼等が小さな時からはまっていた仏教にちなんだモチーフのTシャツをこの当時から発表するようになったり、ファミコンを2台繋げてカセットのはまり具合からバグを起し、それを繋ぎあわせてVJをするという当時画期的なとんでもないことをやり始めていた。雑誌等ではクラブにゲーム機が数多くならびソニックの着ぐるみがクラブ中をねりあるいている奇妙な写真が雑誌に載っていたのを僕は覚えている。)

『サイモン・ハリスというアーティストがマリオのリミックスをやっていたり、ヒプノトーンという人がゲームボーイをパクっていたりして、すごいイギリスではゲームってかっこいいというのが始まっていた頃で、ソニックのTシャツがブートで出回っていて、俺が全身そういったかっこをしていたら田尻さん(ポケモンの田尻智)が来て、「それすごいかっこいいね、それどこで買えるの。」って話になって、その時に「君、一回遊びにおいでよ。」ってなって。それでゲームフリークに遊びに行った時に、田尻さんと仲良くなってすごく通うようになって、僕すごくゲーム好きだし、ゼビウスとかすごく好きでナムコ世代だったので、田尻さんが「君いっぱい物知ってるね。」という話になって。それで、遊びに行ってるうちに席作ろうかって話になって、それで席を作ったんですね。』

ゲーム(オタク)+ クラブ(かっこいい)という図式は中味の差はあれど、ユーザーだけではなく作り手の心をもどこかで安心させたに違いない。そして、大さんはあのポケモンを世に送り出そうとしている真っただ中のゲームフリークに落ち着く。ポケモンの開発には直接には関わらないまでも、閉鎖的なゲーム業界に一つの穴を開けて新鮮な空気を送り込む事に成功したことだろう。大さんもたくんさんの事を田尻さんから吸収したとインタビューや本で答えている。ゲームフリークでは「パルスマン」というゲームの広告宣伝に関わり、大さんらしくゲーム好きのマリンこと砂原さんと、大さん + 田尻さんが組んだ異色ユニットステレロタイプ名義でコロンビアからCDを出したり、当時大さんがモニターをしていたアナーキックアジャストメントにTシャツを作ってもらったりしていた。そしてテクノ漬けの毎日が始まる。

『その頃って追っかけて追っかけて毎週のようにクラブに行っていたんですね。毎週会っている奴は一緒なんですよ。野田さん(後のエレキング編集長)もいたし、三田さんもいたし、今一緒にやっている現ちゃんもいたし、いろんな奴がいたんですね。だけど一緒に踊ってはいたけど一度も話した事はなかったんですよ。その時に、5時からやる事になったんだけど(クラブに警察が入って、他のクラブに場所を移す事になった)1時間空いてしまって、みんなで西麻布の交差点のあたりでワーと待ていたんですね。石野君(石野卓球)もいたし、野田さんもいたし、イベンターの野村さんもいてCMJKさんもいて、マネージャーの森川さんもいて、弘石君もいて、そして渡辺健吾もいて、それで「毎週会っているよね。」って話になって、「こういう音楽いいよね。でも毎週会っているけど、やっているクラブはイギリス人で、かかっている音はドイツの曲で、なんで俺達、日本にいて日本の曲は一曲もかからないんだろう。」という話になって、で、「こんな風に毎週会っているけど、お互いは原稿とか読んで知っている訳だから一度昼間会ってみねえ。」という話になってディスクガレージという事務所で始めて昼間会って話をして、それがフロッグマンの前身です。それで、レコードを作ろうとなったんですね。』

そしてフロッグマン・レコード、ライターとしての大さんが始まる。これまでに数多くの音楽やグラフィク、国内外の面白い情報を、大さんやその仲間達から僕は教えてもらった。そして去年、ライターとしてこれまで数多く書いてきた文章をまとめた「ジェネレーション-N」を様々な諸事情で四苦八苦しながらも出版する事に成功する。

『この本は紹介屋としての自分が5年ほどいてその間のまとめに近いですね。これを出しておかないと今度自分が作る方にいけないなという意識があって、これをを出した事によって次は作り手に回りたいという、タイミング的にもちょうど、森本さん(森本晃司)や渡辺監督と知り合えたのもこの本を作っている途中のタイミングだったので、これを出したら俗にいうライター仕事とも少し離れて、作り手の方に回りたいと思って、ここ二年程がんばっている感じですね。これ書き下ろし一つも入れてないんですよ。それがコンセプトで、ベストアルバムにしたかったんです。後書きも自分ではぜったい入れないで、これまでお世話になった3人の人達(秋元康、田尻智、桝山寛)に後書きをお願いしたんです。ハードディスクレコーダみたいなもので、ここは使えるここは使えないと選んで、そのかわり書き直しはすごいしたんですね。自分の中ではリミックス作業みたいなもので、石野君がスタジオでやっている作業なんかを見ていて自分でもこういった事を文字を使ってやりたいなと思って、切ったり貼ったりしながら作ったんです。』

大さんは現在でも、KEN-GOさんやフロッグマン・レコードを支持するたくさんのクリエイティブなスタンスのユーザーや作り手と共にアルバムをリリースしている。フロッグネーションでは「カウボーイビバップ」の脚本の幾つかと舞台設定を手がけ(ジャミング・ウィズ・エドワードなど他数話。シリアスな話しが多いビバップにおいてテクノ色が多くエドが活躍する数少ない話しを書いている。ジャミング・ウィズ・エドワードの小説化に向けて執筆中で、監督とリミックスCDを準備中とのこと。)ゲームではナムコの「R4 -RIDGE RACER TYPE 4-」や、今開発中の「エースコンバット3 エレクトロスフィア(*3)」の制作に関わり、脚本を書いたりしている。辻仁成と後藤繁雄が編集する文芸誌「WESTLAND vol.1」において「ビート・パーミニッツ」と題した小説の連載も開始した。この小説は90年代のクラブカルチャーを生で感じえた者のみが知る事の出来た感動を一つ一つ丁寧に書いたものである。そして海外に向かう日本人DJの視点を通して90年代にビートが存在したことを証明している。


エースコンバット3 エレクトロスフィア © 1999 NAMCO LIMITED, All Rights Reserved.
「エースコンバット」シリーズ最新作。前作からの良さを引き継ぎ、かつ今回はプレイヤーの決断がストーリを変えていくマルチミッション・マルチストーリー展開を目指す。
「R4 -RIDGE RACER TYPE 4-」で見せたあの朝焼けの美しいグラフィックを思うと、かなり楽しみ。

『三大要素があって、「ガンダム」「ゼビウス」「YMO」というのが、小学校6年の時にあったんですが、それが全てです。僕の原点です。このPOPで、アンダーグランドで、裏設定の多さ、これってこの3っつに共通するじゃないですか、これが今の僕の趣味に全て共通するんです。』
そう話す大さんは彼がこれまで受けてきた様々なすばらしい作品を身体中で感じて、その作品に対し自分の作品をもってリスペクトを返そうとしている。僕達はネットワークを手に入れた。それは遠く離れても活動の場所が違ってもお互いをリスペクトする環境が出来上がったということではないだろうか、あいさつ一つで僕達は世界をまたにかけてコラボレーションをしている。時代を越えて。最後に「これから何をやっていきたいですか、目標はありますか?」と大さんに質問をぶつけてみた。

「遠い事は何も考えていないです。それよりも今の出会いを大切にして今やりはじめている事を形にしていくことが重用です。」

東京はとても情報が多くて、時には何が良くて何が悪いのか見失いそうになることがある。その中で大さんのように興味の対象をしっかり捕え、確実にこなしている姿勢には学べきものがたくさんあると感じた。

Text: Akira Natsume
Translation: Mayumi Kaneko

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