フロッグ・ネーション

PEOPLEText: Akira Natsume

大さんは、教師が「狂い咲きサンダーロード」を知らないという理由で学校にいかなくなるほどの人だったらしい。そして当時大さんが嫌っていた「おニャン子」の世界を作った作詞家の秋元康さんの事務所ソールドアウトに皮肉ながらも入る事になる。でも、丁稚として3ヶ月も家に帰れず、給料もなしという地獄のような条件を呑んだ結果だった。そして3ヶ月のつらい修行期間の間に徐々に放送作家として大さんの名前がTV、ラジオにクレジットされるようになる。

『ただ、作詞家にはなれなかったんですよ。秋元さんは作詞の仕事はやっているし、ディレクターの人も来るのだけれども誰も紹介してくれないし。こういうのは自分で探さないといけないんだなと思って。』

またも運命の巡り合わせがある。友達のライブで偶然に一気統合した人がその当時すごく人気のあった銀色夏生をプロデュースしていた業界ではすごく有名な人だった。またも自分の詩200遍をすぐに速達で送り付け、19才の時に始めて沢田研二の「この僕が消える時」を作詞する事になる。ソールドアウトに入ってからまだ3ヶ月たたない頃だった。その話しがソールドアウト中に広まると大さんの立場はガラリと変わり、もはや誰も丁稚として見る人はいなくなった。そしてすぐに、放送作家セクションから離れ、念願の作詞家セクションに入り、作詞家としてデビューしていく。

『どんどんキャリアを付けていって、ドラゴンボールの詩を書いたり、吉田栄作の詩を書いたり、ジャニーズの人と一緒に少年隊の詩を書いたり、近藤真彦の詩を書いたりするようになったんですね。作詞家としてもドラゴンボールをやった所でポーんと印税が入ってきたんですよ。ウギャーってお金で、こんなにお金もらえるの?ってことになって、今まで、5千円しかもらえない世界だったのが、作詞家っておいしーいということになって、自分が狂っちゃいいますよね。19 か20才のそんとき俺は年収一千万以上あったんですよ。』

作詞家として成功していくも会社との条件の相違により大さんはソールドアウトを離れていく。その頃ためたお金で、作詞家として関係が多かったミュージシャン友達と毎晩豪遊し、海外へ遊び回るのが続いたという。ちょうどイギリスではマンチェスターブームが起っている頃で、大さんはそれを友達と確認しにいく。その帰りの行程で始めて大さんはクラブカルチャーに触れる。

『帰りのロンドンでマーク・ウィガンがやっている「ブレイン」ってクラブにその時始めて行くんですね。それまで純粋培養の業界人間ですから、イメージとしてはディスコ。大っきらいなんですよそういうイメージ、別にナンパも興味ないし。そこではDJがテクノを回していたんですけど、今考えるとプログレッシブ・ハウスだったんですね。真っ暗でライトがパカパカしている中で無心に踊るイギリス人を見たんですよ。マンチェちょい後だったんで、アンディー・ウェザオールとかがやっていた頃で 92、93年頃ですかね。僕は始めてだったんで、ライトがパカパカってなっている所でウォーっとイギリス人が踊っているのを見て、もちろんその頃はドラッグとか知らないんですけど、みんな夢中に踊るんですね。みんな好きで踊っているんだから、俺も踊ろうかってなって、それが凄い気持ちいいんですよ。そうすると、酒とか水とかおごってくれんですよ。「お前はどこから来た?」「日本からだ」って答えると、「ニンテンドーの国から来た。」って言われて、暑いから外の中庭とかで見てると、「お前は日本人か?マリオってやった事あるかって」言われて、言われるのはゲームの話か、AKIRAとかのアニメの話で、すごいその時に意識して、それまでは日本人であることがすごく格好悪いってイメージがあるし。日本の物は格好悪いってイメージが合ったんだけど、始めて日本人ってかっこいいんだって教えてもらったんです。「お前の国はすごいもの作るよ。」って、それをアイディンティーとしてこういうクラブを日本でできないかなって思ったんです。その頃DJの福富幸宏さんや、マリンと仲良くなっていて、作詞家をやっていた関係ですごいミュージシャンの友達と仲良くなれて、その流れで DJにも知り合いがいるし、クラブさえ借りれば自分でやりたい事ができるんじゃないかなって思ったんですね。』

マーク・ウィガン:90年代初期、クラブを中心に活躍をしていたペインター。日本にも何度か来日している。自分の地元名古屋にあるクラブ「ブッダ」にも彼の作品がバーカウンターの後にあった。ペイントは様々なアプローチからまた復活しつつある。写真や、ファッションイラストだけじゃ生活は面白くならないから。

当時まだまだアニメや、ゲームは子供の遊び道具で、それにはまっている奴は汚いオタクどもという偏見がついて回っていた。いくらアニメが好きで、かっこいいと思っていたとしてもそれを堂々と宣言をしたり、アニメのT-シャツを着るなんて考えられなかった時代だった。しかし、またもやかっこ良さは海外から教えてられてしまった。アニメ柄のTシャツもスケートにはまっている奴周辺からブームが起り、「I.Dマガジン」の表紙をソニックがかざるようになっていく。今までつばをはきかけるようにアニメやゲームを観ていた連中はその皮肉を当時どう感じていたのだろう。

『イギリスにいた時にマーク・ウィガンのクラブかどこかで、I.Dマガジンのテリーを紹介してもらったんですけど、つたない英語で「俺は日本でゲームを置いてあるクラブを作りたいんだ。」っと冗談っぽく言ったら、「それはすごいカッコ良いよ。俺は今度UPUという会社から日本でI.Dマガジンの日本盤を出すんだけど、そのオープニングイベントでそういうのをやれば、お前にUPUの奴紹介するから企画書だせよ。」という事になって。それから一週間か二週間ぐらい濃い時間をすごして日本に帰ってから、UPUに行って企画書を出して「こういう事がやりたくてテリーと会ったんです。」って話したら、「テリーはいつも酒飲んでそういう事を良いって言うんだよ。」って、UPUって会社は別にI.Dらしさってのはあまり関係ないらしくて、一笑にふされてしまったんですよ。俺が「アニメとかゲームとかをかっこよく紹介したい。」って言ったら、「格好悪いだろオタクなんて。」言われてできない。じゃぁ自分でやろうという事になって、』

イギリスでもなく海外でもなくて、大さんが始めたゲームとクラブカルチャーを結びつけたイベント「TGNG」がここ日本で成功したのは一つの救いだったと今思う。インディーズマガジンブームも始まり、日本発のプライドを持った作品が少しづつ増えていった頃で、もしこのTGNGのようなイベントがイギリスで先に行われて、それが逆輸入という形で入ってきていたら、またもや日本が作ってきたものに対して誇りを持てる事が遅れていたのではないだろうか、その頃から日本独自のグラフィックや、音楽が過剰なまでのスタンスの取り方だけれども多くなっていく。それはこれまで自国が作りだしてきた文化に対して多少なりも劣等感をいだいていた僕等にとってみれば仕方が無い事だった。そして、やっと雑誌、音楽、クラブ、ゲーム、アニメ、etcと90年代は遅いスタートながらも始まっていった。
(TGNGには、今GASBOOK等でお馴染みのNEND GRAPHIXXXも参加していて、ゲームや彼等が小さな時からはまっていた仏教にちなんだモチーフのTシャツをこの当時から発表するようになったり、ファミコンを2台繋げてカセットのはまり具合からバグを起し、それを繋ぎあわせてVJをするという当時画期的なとんでもないことをやり始めていた。雑誌等ではクラブにゲーム機が数多くならびソニックの着ぐるみがクラブ中をねりあるいている奇妙な写真が雑誌に載っていたのを僕は覚えている。)

『サイモン・ハリスというアーティストがマリオのリミックスをやっていたり、ヒプノトーンという人がゲームボーイをパクっていたりして、すごいイギリスではゲームってかっこいいというのが始まっていた頃で、ソニックのTシャツがブートで出回っていて、俺が全身そういったかっこをしていたら田尻さん(ポケモンの田尻智)が来て、「それすごいかっこいいね、それどこで買えるの。」って話になって、その時に「君、一回遊びにおいでよ。」ってなって。それでゲームフリークに遊びに行った時に、田尻さんと仲良くなってすごく通うようになって、僕すごくゲーム好きだし、ゼビウスとかすごく好きでナムコ世代だったので、田尻さんが「君いっぱい物知ってるね。」という話になって。それで、遊びに行ってるうちに席作ろうかって話になって、それで席を作ったんですね。』

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