田名網敬一 記憶の冒険

HAPPENINGText: Alma Reyes

すでに高校生の時には、人一倍絵の巧かった田名網は、自然と美術大学への進学を目指すようになる。母親を始め親戚一同の猛烈な反対を押し切って武蔵野美術大学に入学。2年生(1957年)の時にデザインの権威団体である日本宣伝美術会の主催する日宣美展で特選を受賞。その後、博報堂に就職。この頃田名網は、粟津潔や篠原有司男をはじめ、さまざまな著名な芸術家たちとの重要な出会いを果たしている。


田名網敬一《ORDER MADE!!》1965年   © Keiichi Tanaami / Courtesy of NANZUKA

日本最初期のポップアートとも呼べる《ORDER MADE!!》シリーズ(1965年)は、色鮮やかな男性用ストライプ・ジャケットとネクタイをシルクスクリーンで印刷したもの。ポップなグラフィックのテーマは、大量生産された衣服を想起させ、皮肉にも物質主義的な消費社会を暗示している。アメリカの雑誌『AVANT GARDE』が1968年に主催した反戦ポスターのコンテストに出品され、優秀作に選ばれたポスター・シリーズ《NO MORE WAR》(1967年)は、網点による背景、写真の流用、漫画を意識した構成に、この時期から作家の興味が印刷による複製にあることが明確に表れている。これらのシリーズは、田名網がアメリカのポップカルチャー全盛期に、音楽アルバムのジャケットやポスター、絵本などのコマーシャル・アートでブレイクするきっかけとなった作品である。


第1章「NO MORE WAR」展示風景より、田名網敬一《NO MORE WAR》シリーズ、1967年  Photo: Alma Reyes

田名網は、1966年に日本のマンガとアメリカのヒーロー・コミックを融合したポップテイストのアーティストブック『田名網敬一の肖像』を出版。「印刷物=複製であるという固定概念から脱却し、無数のオリジナル作品の存在というように理解してほしい。絵画の本質と作品の希少価値などというものは、作家の痕跡、その他のすべてのおもいを封じ込めてしまったその一点だけが芸術であり、純粋絵画であるという考え方が支配していた時代の神話である」というステートメントを本書に寄せている。そして、1970年に初めて訪れたニューヨークで、アンディ・ウォーホルの生の作品に出会ったことで田名網の考えは確信に変わる。


田名網敬一《Wonder Woman》1967年   © Keiichi Tanaami / Courtesy of NANZUKA

ウォーホルの美術やデザインといった、ひとつのメディアに限定しない制作方法に大きな刺激を受けた田名網は、その後に数多くの実験的な作品を精力的に展開。自らを「イメージディレクター」と名乗るようになる。1960年代後半からは音楽や映画、文芸に係る多くの雑誌のエディトリアルデザインを行い、1975年には日本版月刊『PLAYBOY』の初代アートディレクターに就任。また、『月刊イメージフォーラム』、『美術ジャーナル』など、雑誌の表紙で作品を数多く手がけている。

また、手塚治虫に憧れていた田名網は、幼い頃から映画への興味が強かった。この頃、膨大な量の仕事の傍ら、長年の夢を実現するべくアニメーション制作に打ち込み、表現の幅を着実に広げていく。第3章「アニメーション」では、マリリン・モンロー、エルビス・プレスリー、ビートルズとオノ・ヨーコ、コカ・コーラ、マリオネットなど、象徴的なアイコンをモチーフにした1960年代から70年代に制作された7つの映像作品を見ることができる。

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