NIKE 公式オンラインストア

池上高志

PEOPLEText: Yu Miyakoshi

マッシブデータフローの世界をみる研究者、アーティスト 

ikegami4306993124_d3062c7566_b.jpg

サイエンスとアート、その2つの領域にたずさわる時、指針となるのは科学する直観なのか、芸術的な着想なのか。脳化学者の茂木健一郎氏は『アーティストは猛獣で、研究者は猛獣使いだ。』と言われたそうだが、複雑系研究者の池上高志氏は、東京大学に教授として在籍しつつ、時にアートのフィールドへのぞみ、その両者であることを試みている。そんな池上氏を訪ねたインタビューは、まるで氏の視座の前に、サイエンスやアートが潜在する深い森が広がっているような時間だった。

研究者として活動されてきた池上さんですが、ICC(NTTインターコミュニケーション・センター)で音楽家の渋谷慶一郎さんとインスタレーション作品「Description Instability 記述不安定性」(2005)を作られたことを皮切りに、その後も YCAM(山口情報芸術センター)で人工的なサウンドスケープを体感できるインスタレーション「filmachine」(フィルマシーン)(2006)や、「Taylor Couette Flow」(テーラー・クエット・フロー)(2007)などのアートプロジェクトに参加されています。アートの分野で活動をはじめられたきっかけについて教えていただけますか?

渋谷慶一郎さんと会って、意気投合したというのがきっかけです。それまではアートも音楽活動もしていませんでしたが、2005 年に渋谷さんと「第三項音楽」※)というものをつくりました。「filmachine」(フィルマシーン)では僕が研究のアルゴリズムを使ってサウンドファイルをつくり、渋谷さんがそれを使って作曲をしています。Filmachineは3次元のサウンドスケープで、サウンドアーティストのEvala、当時研究室の博士の大海悠太、それにプロジェクト全体を支えてくれたMariaの助力なしには実現しえないものでした。

※第三項音楽:通常はドローン(反復)とメロディー(差異)という二項対立からなる作曲の世界に、新しい三番目の要素として、作曲家が無意識のうちに導入しているであろう動きや、音の自律性といったものの導入が試されている。

icc2.jpg
「Description Instability」Concept & Composition: Takashi Ikegami, Keiichiro Shibuya (2005)

「Taylor Couette Flow」(テーラー・クエット・フロー)で使われているテーラー・クエット・フロー(筒状の乱気流装置)は素晴らしいと思いました。アートへの取り組みで「自然現象を作る」ということをおっしゃっていますが、それはどういうことなのでしょうか?

人工的なシステムをつくる方が、より自然についてわかると僕は考えています。都会の中でネットに囲まれて生活している人が自然を感じることもある、ということに近いと思うんですが。テーラー・クエットという乱気流発生装置自体は僕が考えたというわけではなく、テーラーとクエットという人が、70年以上前に考えたものです。二重の円筒の隙間、1センチ位に水が入っており、内側の円筒を回転させ、速くしていくとやがて秩序だった流れが生まれさらに乱れてくるのですが、そのパターンを使って動きから音をつくっています。水の動きにを視覚化するためにアルミの粉を混ぜてあり、その粉のパターンの変化をCCDカメラで撮って、音に変換しています。

TaylorCouetteFlow_2007_1.jpg
「Taylor Couette Flow」Concept & Composition: Takashi Ikegami, Keiichiro Shibuya (2007)

音に変換するというのは、どういうことでしょうか?

スピーカーから聞こえてくる音というものは、結局どんな音であってもスピーカーの膜が振動するだけです。それはモーツァルトだろうとベートーベンだろうと、小学生のつまびくヴァイオリンであろうと、その音が録音して出力される時は、スピーカーの膜が振動するだけなのです。そこが辛いところです。しかし、同じ楽譜一つを演奏するにしても、ヴァイオリンであったりピアノであったり、演奏者によって上手であったり下手であったり、といったさまざまな違いがありますが、その演奏の良し悪しや音色の違いを装置そのものに埋め込もう、というのがテーラー・クエット・フローのやり方です。普通は単に水が回転するだけだと、何も起こらないと思うじゃないですか。でも、そうではなくて、色んな周期が生まれたり渦のパターンが変動したり、乱流構造が生まれたりする。乱流構造というのは、ただランダムになるだけじゃなくて、ある種の構造や特殊なパターンが入っていて、そういうのがサウンドに反映できて面白いところです。Taylor Couetteでは、CCDカメラで取った画像をスキャンして一つの数にし、それをサウンドの大きさとします。それを毎時取り込んでは、別のアルゴリズムに放り込んで変化させます。乱流の持つ変な周期性やアルゴリズムの性質で、ホワイトノイズではない構造のあるノイズが生まれます。

filmachine.jpg
「filmachine」 Concept & Composition: Takashi Ikegami, Keiichiro Shibuya (2006)

その「自然現象」が、なぜかアートを感じさせますね。

渋谷さんと最初に考えたのも、そういうことに近いですね。僕の場合は表現と現象の真ん中ぐらいを狙っています。よくアートで、こういう風に置いたら(目の前にあった文房具を立てて)「アート」になった、などと言ったりしますよね。そういうのはあまり僕の発想にはなくて、そういう風にさせる原因とかメカニズムからつくろう、ということが多いです。例えばテーラークエットの理論というのに、「トーラスからカオスへ至る道」という数学の理論があるのですが、インスタレーション作品ではその理論を体験できる。どういう現象が起こってどう変化していくか、というのは、目で見たり耳で聞いたりして体験した方がわかりやすい。理論を書き出したり読んだりして理解する、というプロセスにはない面白さや複雑さを体験できればいいな、ということでやっています。

理論を頭で理解するのとは違った、アートとして伝わってくる体験があるのですね。

体全体を使いますから、情報量が多い※。自分で体験してみて初めて分かる、というのは往々にしてありますよね。アートというものは別に、そこにある種の意味論があらかじめあるわけではないですから、「アート」をやって結果としてわかる、体験して初めて我々も何を作っていたかがわかる、そういうことがあると思います。それから、僕は生の自然というのがなにか気恥ずかしくて、人工的なものから自然を考えたい。だから生命そのものを扱うよりも、生命以外のもので生命を考えたくなる、というわけです。

※池上氏の研究の一つに、人を取り巻く環境でやりとりされる情報がいかにマッシブ(大量)か、ということに端を発し定義をした「マッシブデータフロー」というテーマがある。現実の世界だけではなく、人間の処理能力を越えるほどの膨大なデータが簡単に手に入るようになったメディアの世界におけるさまざまな現象や問題にフォーカスをあてている。

filmachine_details.jpg
「filmachine」 Concept & Composition: Takashi Ikegami, Keiichiro Shibuya (2006)

テーラー・クエット・フローの、人工物が見せてくれるSF映画や小説のような世界観がいいと思いました。

僕にはそういうのはあんまりないんだけど (笑) 、僕がつくるのは、ある種の顕微鏡みたいなものと言いますか、アンプリファイア(拡大装置)としての人工物という感じです。本物よりも寓話とか、魔術的だったりするものの方が真実を語るところが大きいと思っています。それで皆、小説を読むんですよね。小説を偽物だと感じているわけじゃなくて、そっちの方が本物だからですよね。

filmachine2.jpg
「filmachine」 Concept & Composition: Takashi Ikegami, Keiichiro Shibuya (2006)

池上さんが作品をつくられる時には、「寓話」が生かされたりしているのでしょうか?

いや、生かされてないですよ。僕は現象としてつくっていますから。複雑系でも「ストーリーテリング」が重視されていたけど、僕にはそういった物語性とかより、多発的な解釈の方が、趣味に合うのです。普通の抽象絵画でも、具体的に何かを描いている、というわけではないですよね。例えばジャクソン・ポロックは、別に何かを表現しようとしているのではないわけです。作品に題を付けたり、制作していくうちに、ある種のメタファーに行き着くということはあると思いますけど。ポロックがやろうとしていたような意識と無意識の狭間の中にある現象ということが、作品としていくらあってもいいと思うんです。皆、自分のやっていることに対してラベルを貼りたがる。でも、そんなに何に対してもラベルが貼れるわけじゃないですよね。僕にとっては、自分のやっていることがサイエンスなのかとかアートなのか、だとか、「大学で科学を教えているけれども、アートはいつからやっていますか」とかいう質問自体はあんまし意味を持たないんですよね。好きなことをしている、としか言いようがないです。

最近では、現代アートとメディアアートの境を曖昧に感じるような展示を目にすることも増えてきました。ポロックのお話が出たのでお尋ねしたいのですが、例えばポロックのようなアートの表現にあった制約や限界を、メディアアートが越えていく可能性があると思われますか?

メディアアートと絵画の差ってそんなにあると思いますか?僕はわりと地続きだと思っていて、メディアアートで絵をつくる道具に内部構造がある、とかいうことはあると思うのですが、基本的には、その操作する人間の内面的なものがやっぱり重要だろうし、そんなには変わらないような気がします。むしろ、優れた絵画の方が、“100万画素を持った画像だとか何とか” といったものよりも、面白いことが多いですよね。何故そっちの方が面白いか、と思うことを考えるのが大事だと思います。

絵画にはできなくてメディアアートにできること、というのもありますが、どうでしょうか?

「何でもできることは、何にもできないことと等価」だって、僕は思います。何かしらの制約が入っているということが大事で、例えば他にはない「異物性」とか、あることにしか使えないという「特異性」の方が、アートにはいいと思う。万人が使える道具になった瞬間に、それは何かこう、アートとは無縁になっていくようなことが多い、そういう風に思います。科学もそうです。人工生命でも、何でもシミュレートできるものをつくろう、というSWARMプロジェクトというものがサンタフェ研究所でつくられたことがありましたが、プログラムが面倒くさいし結局誰も使わない。

メディアアートは、10年ぐらい前に初めて見た時は、企業の機器のデモンストレーションみたいでつまらないな、と思ったのが正直な感想でした。シーグラフ・アジア(コンピューターグラフィックス/インタラクティブ技術の総合展)を見た時も、つまらない感じがしました。そういったものよりも、アートをバックグラウンドにしているジェームズ・タレルやアニッシュ・カプーアやヨーゼフ・ボイスの方が、遥かに優れているじゃないですか。でも、当時から10年ぐらい経った今、アートとして活用できるような、多分それは技術ではなくて、なにか別のデザイン・パターンがつくられつつあって、面白くなってきた、というところだと思います。カプーアが追求しているテクスチャーが、コンピューターのような汎用性のあるものにも当然潜んでいるわけで、それをどう形で成立させるかというのは、面白い試みだと思うんですよね。ただ僕はもう少し先を行きたいので、もっとシステムの内部構造のようなものを考えますが。それは僕は別にアートが専門ではないし、ぼくがアートをするとすれば、そこしかないからですけれど、それが僕の感想です。

サイエンスとアートを分けていらっしゃらないということに驚きます。

普通は分けてますからね。僕も心情としては分けてないということで、プラクティカルには(実地では)分けていますけどね。友人の茂木健一郎が僕の展示を見に来てくれた時に面白いことを言っていて、「アーティストは猛獣で、研究者は猛獣使いだから、その二つが一人の人の中で同居するのは難しいだろう」と。その彼も両方のことをやっていますし、ダヴィンチも、もともとは両方やっていましたね。

アートとサイエンス、両方やることでお互いに影響するところはあるのでしょうか?

いい部分とだめな部分でありますね。精度= “precision” が違いますから。アートで持たなきゃ行けない精度と、サイエンスで持たなければいけない精度というのは違うから、そこを使い分けるのは結構難しいです。サイエンスだったら、分野外の人が投稿してきた論文を読むと、「あ、この人はこの分野の人じゃないんだな」というのが瞬時にわかる。それが良いことなのか悪いことなのかはわからないけれど、分野とかコミュニティというのは、ある種、精度をつくっていくというところがあると思うんです。それがコミュニティの大事なところでもあるし、分野を育てることでもありますよね。やっぱりどの分野にも、それなりの精度があって、それを外しちゃうと話にならない。僕自身、初めてアートに関わった後にアートの精度を上げるというのはすごく大変でした。

池上さんも精度を上げる努力をされたのですか?

そうですね。でも精度っていうのは、目に見えるものじゃないから、美術館に行って作品を見たり、音楽を一杯聞いたり、サイエンスだったら論文を一杯読んだり、そういうことをしているうちに、なんとなくわかるものじゃないですか。そういう意味で当然ですがアートにも専門性というものがある。あたかもそれがないように思ってる人は、間違っていると思います。

DesireofCodes.jpg
Seiko Mikami「Desire of Codes」Installation commission by YCAM, Related work「MTM
[Mind Time Machine] 」 Concept & Direction: Takashi Ikegami (2010)

アーティストの方がサイエンスの要素を取り入れようとする時に、見た目的なところからアプローチしていくこともありますね。

雰囲気だけでは話にならないですよね。すごく誤解をされているのは、単純にサイエンスのプログラムをアートに使ったからとか、アートをサイエンスの言葉で解釈したからサイエンス・アートだ、なんてことは絶対にない。そういうのは三流、四流だと思うし、僕はそんなことをやるためにはやってない、と思っています。だから僕は雰囲気ではつくらないんですけれども、2010年に「Desire of Codes 欲望のコード」という展覧会で三上晴子さんと一緒にやった時に、少し見方が変わりました。三上さんのように本当に才能のある人がつくると、雰囲気から作ろうが、結果としてすごいものになる。そうした分野とか専門性とかいった問題は凌駕すると思いました。

MTM_2.jpg
Seiko Mikami「Desire of Codes」Installation commission by YCAM, Related work「MTM [Mind Time Machine] 」 Concept & Direction: Takashi Ikegami (2010)

写真家の新津保建秀さんともコラボレーションされていて、昨年は「Rugged TimeScape」(ラジエント・タイムスケープ)という作品を作られていますね。

あれは新津保さんと「写真には時間が入っていない」という話をしていて、画像をプログラムに通して変換させると、写真のなかに別な意味で時間軸が入り込む。ということで、その方法を使って風景の中に存在する、主観的な時間を折り畳んだり引き延ばしたりする、ということを可視化しました。

KenshuShintsubo-0042-cat1.jpg
「Rugged TimeScape」Kenshu Shintsubo + Takashi Ikegami (2010)

新津保さんの写真の持っている雰囲気が独特で面白いし、その意味では理論がなくても、作品として成立していると言える。僕一人でやっていたら作品として成立しなかったと思うんだけど、新津保さんとやったから成立した。そこが、面白いなと思いました。作品として面白いと思ったから、一緒にやったのは勿論なのですけどね。

_DSC0066-cat0%202.jpg
「Rugged TimeScape」Kenshu Shintsubo + Takashi Ikegami (2010)

あのプログラムには、アーノルドというロシアの数学者の理論的背景があります。そのプログラム自体は、学生の演習問題にも使われるような単純なものだから、力学系とか勉強している学生だったら誰でも知っているものだけど、世の中には拡散してないですよね。サイエンスを一般の人に広げるためにどういう活動をしたらいいか、という風には僕はあまり考えないのですが、いくつかの数学的なアイディアを使って面白いアート表現ができるのであれば、貢献してもいいかな、と思いますね。

インターネットのプロジェクトにも参加されていらっしゃいますが、インターネットから生まれるアートの可能性についてはどう考えてらっしゃいますか?

僕は「時間」にフォーカスするところから、見たことのないアートみたいなことが考えられるのではないかと思います。今年の2月に、青山ブックセンターで「Sound BookShelf」というパブリック・アートをつくりました。これは自律的なセンサーをつかって、本屋さんの温度とか湿度をいろいろな場所で感知して、それを無線でお互い交信して、センサーの精度とかが進化していくというものなのです。このとき、バーチャル・リアリティの研究をしている廣瀬通孝先生とトークをさせていただいた。そのときに出てきた話が、現在のネット社会では、個人レベルの「今」が増えているという話です。どういうことかというと、インターネットでは過去をどんどんさかのぼってサーチすることができるようになっている。一方でツイッターとかで予測をすると、未来も到達可能になってくる。それがフィードバックされて「今」に集約されてくるから「今」ばかりがどんどん肥えている。昔は、社会的な出来事の「今」によって個人の「今」なんて抹消されてしまうんだ、っていう感じがあったと思うのですが、現代は個人レベルの「今」が肥大化してしまっている。それで面白いことができるかどうかは、また別の問題かもしれないですけど、そういう状況ではあると思います。

ただそこで問題なのは、肥大した「今」が豊かな「今」とは違う、というところで、僕は、それがただ肥えているだけじゃなくて、リッチな「今」に構成しなおすようなことが必要だと思います。ネットのない昔の方が、豊かだったような気がする時があるじゃないですか。ここにデータへのアクセシビリティと、豊かさは相反しているのかどうか、という問題がある。何にでもアクセスできることで「かけがえのなさ」が失われてしまうということは、残念なことですよね。ヴォネガットの「タイタンの妖女」などもそういうテーマだと思ったりします※。そういったこともふまえて、時間へのアクセシビリティが変化することで感情の持ちようが変わってくるといったような、時間の有り様に貢献できる技術があれば面白いと考えています。そういった本質的な部分を目指すのであればやりたいと思っていて、ちょっとした「いいアイディア」でやるアートだとかサイエンスだけじゃ、面白くないんじゃないかな、と思ってしまいます。どこかで本質的な部分を目指していないと小手先のアートやサイエンスになってしまうので。もっとも、小手先を積み上げているうちに、大きくて面白い問題に出会う場合もありますけどね。

※ヴォネガット「タイタンの妖女」の 作中に、時間を行き来することができるトラルファマドール人という宇宙人が、死などの悲しみを理解できないというエピソードがある。

これからもコラボレーションというかたちでアート・プロジェクトに関わっていかれますか?

それは何もわからないです。皆、そんなに計画を立てたりするものなのでしょうか?僕はあまり計画は立てないです。こういう方向でやりたいな、ということは幾つかあるけれども、それが変更されるのが面白い、みたいなところもあるんです。予定調和的なことは、できるだけつくらない方が面白いような。計画があると、それを達成したかどうか、ということに目線を合わせるようになるんだけど、それよりも「何か違うことが入って来ちゃってどうしよう」みたいなことの方が自分の生き方にはあっていますし。それに実際、思った通りにならないことの方が多くないですか?

たしかにそうですね。

特に、アート制作の話がどこから回って来て、どういう形で実際に動いていくか、という話などはそうです。「やりたいこと」というものは、時間に制約されるし、お金に制約されるし、その時に誰と一緒にできるか、ということに制約される。その中で、どうやったら一番面白いことができるか、どうやってつくっていくか、ということを考えながら進んでいく。その時に、そこにどれくらい豊かなサイドエフェクト(思いがけない拾い物)が生まれるか、ということを重視します。サイエンスの場合でもそうです。例えば、ロケットをつくろう、と言ってロケットをつくって打ち上げたら、そのこと自体よりも、それとは関係のないところで「何が見えたか」という、豊かなサイドエフェクトを持っている、そっちの方を重視します。でも、それ自体を計画するということは無理なのです。そういう意味で、「何をやりたいのか」とか、計画をたてるとかいったことは勿論あるだろうけれど、あまり意味をなしてないと思います。だけど、僕はそういうやり方でやってきて、何もやりたいことがない、という状態になったことはないです。そういう意味では恵まれた位置にいるのかもしれないですね。

常に目の前にあることに取り組んでいる、ということでずっと来ていらっしゃるのですね。学生の時からそうだったのですか?

学生の時はそうでもなかったかもしれないです。でも、ある時にこう、色んな方向に向かって開かれる時がくる。僕の場合だと、98年にパリに行っていた時だと思うのですが、その時にガブリエル・オロスコやカールステン・ニコライなどの色々なアーティストと知り合ったというのが大きかったですね。ガブリエル・オロスコというのは、あまり知られていなかったメキシコ出身のアーティストで、その当時初めてパリで個展をやろうということになっていたと思います。一緒に飲んだり遊んだりしましたが、今ではメジャーとなり、テート美術館やニューヨークのMoMAでやったり、世界中を回っているようです。カールステン・ニコライと出会いも同様に大きなものでありました。

その辺りから、アート方面の人と繋がりが出てきたのですね。

その時は自分でアートをやるとは思っていなかったですけれど、渋谷慶一郎さんと2004年に知りあって、彼が絶対面白いから、と言って声をかけてくれて、2005年にICCでやることになった。その時のパフォーマンス&トーク「第三項音楽Non-Fourier Formula and the beyond」は面白くなりました。曲を5つつくって、渋谷さんが演奏する音楽の合間に僕が、何が第三項音楽で、どういう風につくったか、という解説を入れる。あれは今でもこう―― “ unexpected!” な、予期せぬ感じがありました。普通は成立しないんじゃないかな、あんなことは。ある意味、めちゃくちゃだったと思いますが、楽しかった。でも、それがきっかけで僕は「世の中には、全然違うものもあるんだな」という風に思うようになりました。国際会議の学者の発表などは、想定質問も多いんです。アートの発表の場に色んな人たちが見に来て、そこでどんな風になるかわからない一発勝負のことをやるというのは、経験としてはかなり面白いですよね。一回性の緊張感というか。それはずっと研究だけやっていたらわからなかったことなので、やって良かったと思います。

研究者の傾向としては、年をとるとだんだんと閉じる方向に向かうする人が多いのですが、僕は経験を開いていった方が面白いと思います。「自分の人生の完成度を上げて、最後にサインして終わり」といったようなことをしたがる人が多いじゃないですか。だけど僕は中途で終わる方が好きなのです。完成しちゃったらつまらない、みたいなところあります。

さまざまな研究をされてきているので、色々な分野の間にいらっしゃって、そこから見えてくる池上さんならではの視点があるのではと思います。

進化のダイナミクスをどう捉えるかということから、生命の起源を考えようっていうことが始まった。そして人工知能や知性をつくろうという、それが僕のスタンスなのですが、僕は生命をつくったら知性がサイドエフェクトで付いてくるんじゃないかと考えるようになった。だから知性をつくるよりも、生命的なものをつくったら、自然に知性が生まれてくると考え、常にそれが頭のどこかにあるんです。生命のメタファーをいかにしてつくり出すか、ということを介してアートを考えたり、意識について考えたり、言語について考えたり。でも基本はやっぱり「生命とは何か」ということをどうやって書くか、あるいはどうやってつくるかということにあって、そこがベースです。

最後に、池上さんが影響を受けたアートや文学があれば教えていただけますか?

高校の時に読んだ宮澤賢治の「春と修羅」は今でも研究のモチベーションになっています。特に序の詩(宮澤賢治「春と修羅」序文)は、人工生命の科学に対する哲学を非常によく表していると思います。もちろん、賢治はそういうつもりで書いたわけではないと思いますけど。賢治は早く亡くなった妹に対する詩など、多くの叙情的な詩を残しているけれども、人工生命をやっている人がそれを読むと、喜びとか悲しみとか科学的事実とか、人間の頭の中で考えることというのは全部イリュージョンで、基本的には電気の回路が流れるパターンと同じことだ、という発想に読める。

科学には、”魔術をしりぞいても残る魔術” を求めてるところがあるじゃないですか。最初から訳の解らない魔法は入れないことが科学のルールだけれど、魔法がないと言っているわけではない。神経細胞やDNAが全部わかったとしても、しかし「生命とはなにか、とか意識とはなにか」という謎は残るわけじゃないですか。その「DNAと生命」、「神経細胞と意識」という繋がらない二つのものの間のギャップを考えるということが科学の真髄です。なぜそこにギャップがあるか、そのことを考えよう、というのが科学なのですから。そういう精神を、賢治のあの詩は表していると思います。

池上高志(いけがみ たかし)
89年東京大学大学院理学系研究科、物理学修了。理学博士。現在は、東京大学広域科学専攻教授 。複雑系と人工生命を研究テーマとし、1998年以降には、身体性の知覚、進化ロボットの研究を展開。2005年以降は、油滴の自発運動の化学実験を開始、同年に「filmachine」、「Mind Time Machine」などのインスタレーション制作もはじめる。2007年には研究成果の一部を「動きが生命をつくる」(青土社)として出版。現在は、マッシブデータの作り出す世界像に興味をもって研究アート活動を行なっている。
http://sacral.c.u-tokyo.ac.jp

Text: Yu Miyakoshi

【ボランティア/プロボノ募集】翻訳・編集ライターを募集中です。詳細はメールでお問い合わせください。
コントワー・デ・コトニエ公式通販サイト | 2016 SUMMER SALE
MoMA STORE