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矢柳 剛

PEOPLEText: Ayako Ishii

goyayanagi1933年北海道帯広市生まれのアーティスト、矢柳 剛(ややなぎ ごう)。1960年代から個展を数多く開催し国際的に高い評価を得、1970年代からは活動を平面から立体へ、そしてファッション、建築、環境アートへと広げ、更には映像作品も手がけ、現在も精力的に制作活動を続けている。

4月22日から7月10日まで、「まちなかアート」のクロス・エディションとして、SHIFTがキュレーションを担当する矢柳剛展「POP UKI – 色彩の魔術 –」が、クロスホテル札幌で開催中。オープニングに合わせて来札した矢柳氏にお話を伺った。

矢柳剛
© 東京画廊+BTAP

ヴェネツィア・ビエンナーレ(イタリア)やドクメンタ(ドイツ)と並ぶ世界の重要な国際美術展のひとつであるサンパウロ国際ビエンナーレへの出展をはじめ、国際的に活躍されていらっしゃいますが、これまでの活動内容含め、自己紹介をお願いします。また、環境美術家として活躍されていますが、その活動の経緯を教えてください。

1933年、北海道・帯広市に生まれました。小学生時代の担任が絵の上手な先生で、放課後によく絵を描きに出かけて褒められたことが、自分のアートへの原点として思い出されます。帯広農業高校畜産科を卒業後、祖母のすすめで東京星薬科大学に進学。戦後で、地方の出身でもあったし、東京国立博物館で開催されていたゴッホの展示などを見て、人を感動させるアートは素晴らしいと思いました。

アートへの情熱が高じて、1953年に大学を中退。横浜の進駐軍キャバレーで似顔絵を描いたりして糊口をしのぎつつ、独学でアートの研鑽を積んでいました。青春病にかかっていたし、好きなことをやっていたから苦しいとは思いませんでした。アートへの情熱はもちろん、考古学にも興味があったので、1957年、当時日本からの移住が最盛期を迎えていたブラジルへ移民船ブラジル丸で45日かけて渡り、59年までサンパウロに住みました。

その後、アフリカ、シンガポール、マニラ、香港を旅行し、帰国。1965~68年には渡仏して、パリで版画を学びました。1954年、東京での展覧会を始め、その後は日本と世界各国で展覧会を開催するようになりました。1966年からは主に、クラコウ国際版画ビエンナーレ(ポーランド)、サンパウロ国際ビエンナーレ(ブラジル)などで版画を発表するようになりました。

北海道では、1992年に北海道立帯広美術館にて「はるかなる宇宙学(コスモロジー)矢柳剛の40年」を開催したほか、1994年、北海道足寄町温水プールにて「生命の躍動」というガラスモザイク壁画や、96年には北海道釧路市空港のVIPルームの「地球と生命のリズム」を制作しました。

今日の衣装(写真上※コシノジュンコ氏とのコラボから生まれた1点もの)もそうですが、自分の作品にはアマゾンの熱帯はじめ世界各地を放浪して体得した色使いを施しています。時代や生活と呼吸する要素を意識して作品づくりをしています。

農業もそうだし、生きることはアートそのものといえます。自分は数十年前の緑に乏しいブラジリアの都市計画を目前にして、植樹を提唱したことがあります。その10年後に再訪したところ、みごとに緑が生い茂っていて感動しました。これは環境アートです。そう言った意味で、環境美術家を名乗っています。
今でこそ良いことをやっているとの評価をいただきますが、自分が取り組みだした30年前は、木を植え、海の水をきれいにというと、奇異な目で見られることも多かったです。

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