ライムンド・アブラハム
PEOPLEText: Hans Hoger
『私が作品を作るにあたってのインスピレーションは、匿名の建造物、日々使っている電気製品、歩行中に目にする風景、そして文学の詩的観点から得ている。』
1933年、オーストリアのリーエンツで生まれたライムンド・アブラハムは、1971年から活動の場をニューヨークに移し、クーパー・ユニオン大学とプラット・インスティテュートで教鞭をとっている。それ以前は、1960年から1964年までグラーツにあるポリテクニック大学で建築学を専攻し、ウィーンでウォルター・ピヒラーと働いた経歴を持つ。
Raimund Abraham, Photo: Nathalie Schueller
60年から70年代に渡り、アブラハムはオーストリアの急進派グループのリーダー格の一人であった。彼の1963年の作品「エレメンターレ・アーキテクチャー」は、急進主義運動中の最初の発表作品である。1964年のアメリカ訪問では、ヨーロッパ・アメリカ両方からの実験的な前衛派と共に運動の為の重要な貢献を果たした。
専門的な活動としては建築のおけるドローイングの独立した価値は本質的なものになる、といつも考えていた。『ドローイングは建築的思考の認識の為の、私達が常に利用できる道具の一つなのだ』とアブラハムは言う。
1992年にオーストリア外務省主催で行われたコンペティションで226のエントリー作品の中から選ばれ、ライムンド・アブラハムが手掛けた建築物は、マンハッタン東52丁目1番ある地上80mの高層ビルだが、通りにそって幅7.6m、奥行き28.3mという比較的小さな土地に立っている。
The spine, the nucleus and the mask, left: The Institute For Austrian Culture in NY, right: The Institute For Austrian Culture Plan (1992-2002)
そのビルはアブラハムのデザインに対するメッセージを反映しており、そのランゲージ・グラフィックとサインを形どる事によって建築物を特徴付けるために空間を削ったようにも見える。特に、アブラハムは、ビル全体を3本の柱に分け、それぞれの柱がお互いに隠れて見えるよう配置した。支柱は吹き抜け型の階段を支える形になっており、他の2本の柱のサポート役にもなっている。グラスマスクは通りに沿ってそびえ建っている。
あるインタビューで、仕事の文脈について『ニューヨークの状況は一体どうなっているのでしょうか?インスティトュートの片側では戦後に建てられたひどい高層ビルが立ち並んでいると思いきや、かたや戦前に建てられたまともなホテルがあったりする。人々はニューヨークの事をコラージュと呼ぶのが好きな様ですが、コラージュはなんらかのプランを示唆するでしょう。それよりもニューヨークという街は無政府主義のはかり知れなさに似ていると思います。』と、語っている。
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