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若手アーティストのための国立美術館賞 2011

HAPPENINGText: Kiyohide Hayashi

本展覧会で最もシンプルな作品を出品したのは1976年生まれドイツ出身の女性アーティスト、キティー・クラウスだろう。彼女はガラスの作品を出品しており、素材が持つシンプルさとは対照的に強く存在感を放っていた。

作品はその透明さに見落とされがちではあるが、近付けばその異常な状態に気付かされることとなる。片側を20センチほど持ち上げられた状態のガラス板が不自然に湾曲している。湾曲の具合は今にも限界が訪れ作品が自壊するようにも見え、見るものに心理的な圧迫感を感じさせるものとなっている。しかし作品から同時に強く感じられるのは感覚的なものだけでなく、過去の現代美術作品への言及でもある。

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Kiity Kraus, Untitled, 2011 © Photo: Roman März

例えばガラス板の作品は素材の積み重ね方や置き方の点でリチャード・セラの作品を思い出させる。公共空間に設置されたセラの作品が撤去を求める裁判を起こされたことは「表現の自由」において有名なエピソードだが、その理由が作品の周辺住民に与えた圧迫感であったことは本作品からも思い出すことができるのではないだろうか。

また本展には出されていなかったが、インクの中に電球を入れて凍らせた氷が、電球が点けられることで光を放ちつつ溶け出し床に模様を描く作品がある。そのブロック状の物体から伸びるコードはまさにブルース・ナウマンのコンクリートで固めたテープレコーダーの作品を彷彿とさせる一方、熱による変容はヨゼフ・ボイスの唱えた彫刻概念さえも思い出させる。

このように60、70年代の美術作品の引用は、同時に彼女の作品が持つ意味を多層的なものとする。ただし忘れてはいけないのは過去の引用が彼女の作品を成り立たせるのではなく、作品そのものに危うくも美しいという魅力があるがゆえに、背景にある文脈が素晴らしい共鳴を生み出すことだろう。

一方、1979年スウェーデン生まれのクララ・リーデンの作品は室内に留まらず室外へと拡張しており、他のアーティストとは一線を画す展示となっていた。

展示室には一台のモニターが置かれ、机と椅子、そしてゴミ箱が置かれた簡素な空間が映し出されている。映像に映された人物は椅子に座っているが、おもむろに立ち上がり机の脇に置かれたゴミ箱へと向かう。そして唐突にゴミ箱の中に頭をねじ込み、するりと全身を小さな箱の中に滑り込ませ、またたく間に一人の人間はゴミ箱の中に消滅する。これはアーティスト自らが演じているため、彼女のパフォーマンスと呼べるものであり、荒唐無稽かつ不可思議な印象を与えている。

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Klara Lidén, Harvest Moon, 2011 © Photo: Roman März

一方屋外の美術館中庭に目を移せば、ベルリンの街中に見られる巨大なゴミ箱が鎮座している。縦約1メートル、横約2メートル、幅約1メートルの巨大な箱は建築現場や工事現場の脇に置かれ、現場で使用された木材や工業素材などを廃棄するためのものだが、本物のゴミ箱と大きく異なる点は植物で形作られていることである。庭木のように丁寧に刈り揃えられた木々はゴミとはなりえず、その形態から期待される機能を拒絶する。このような拒絶の姿勢はクララ・リーデンの作品にとっては重要な要素となっており、彼女の作品の背後に見え隠れする。

本展に出品されなかったものでは、電車の中でアーティストが衆人の目を気にすることなく狂ったかのように奇妙な踊りを披露し、パブリックスペースの意味を無視して公共空間である場所を私的場所へと暴力的に移し替えようとしている。また美術館の展示スペースに自身のアパートの中身を移したり、展示空間入り口を封鎖し空間内部を見ることができないようにして「美術館」を機能不全にさせている。このような彼女の姿勢は私たちが通常疑いなく受け入れている「公共性」などの制度や構造に対する疑いであり、彼女は「反逆者」として無条件のそれらの受け入れに意義を唱え、強く抵抗を打ち出していた。

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