エリック・ヴァン・ホーヴ

PEOPLEText: Vicente Gutierrez

あなたは、この作品にどのくらい浄化作用があると思いますか?見る人には、そのようなリアクションはあったのでしょうか?

さて、ここでお焚き上げについて触れたいと思います。神道儀礼的な伝統において、僧侶が時々、ものを浄化するために燃やす儀式を行います。それは、長い間にわたり何かを使用した時に、そこに多くのエネルギーや情を注ぐということや、ある時点でものが人を悩ませてしまうという概念にどこか基づいている。それは、たとえば、クリス・マルケルの「サン・ソレイユ」に見られる、人形を燃やす行為を思い起こします。

ある夜、展覧会の後か、展覧会中に箱の側に立ち、小さい紙きれにメッセージを書いている2人の老人を見掛けました。この時すでに、ミミズは私の小さい友人のようになっていて、ミミズ達にあげようとレストランからもらってきたアボカドの皮をポケットに忍ばせてたりしてね(笑)。2人の老人は、実は戦争についての記憶か、アメリカ人との戦いの際に前線で姿を消した仲間の名前を書き留めていました。それから、彼らはそのメッセージをミミズに食べさせ、そして、ラジオから聴こえる、ミミズがむしゃむしゃと食べる音を聴いていました。それは、とても力強い、私の作品のアプロプリエイションではないでしょうか。

アーティストとして、これ以上ハッピーなことはないです。それは、彼らの痛みを伴う問題とその思いを消化してくれるミミズ達がここにいるという、作品全体にカタルシス次元を与えました。そういうわけで、「日本国憲法 みみずアウトダフェ」を攻撃的であるとか、冒とく的なものとして考えることは、あまりにちっちゃなことです。それは、彼ら老人達、彼らが見たものです。ミミズに彼らの抱える問題を与えました。そこに清めるということの本質を見ることができます。日本でみられるような精霊信仰の文化においては特に。年配の女性さえ、ミミズが自然に携えている目的と機能を知っていました。ミミズリサイクルが、昔どこか未発達の社会で利用されていた、そのことを彼女達がまだ少女だった頃に母親から伝えられていたのでしょう。

制作の上で難しかったことや失敗はありましたか?

そんなになかったです。箱を僕が制作し、リチャードからミミズ飼育場を作るのに湿気についてなどアドバイスを受けました。ミミズに関しては、東京から運んだのですが、それ自体は何も問題なくて、その後の管理ですね。大きなミミズを飼育していた時面白かったのが、与えるもの何でも食べてしまうから、ミミズのコロニーがどんどんと大きくなっていく。そして、気温が下がり過ぎると、みんな死んでしまうし、何も与えなくても最終的には死んでしまうんです。でも、卵が土の中に残るっているので、再びコンディションが良くなると、卵が孵化する。何にでも耐えることができる素晴らしい驚きの生命体ですね。一種のアートそれ自体のメタファーみたい(笑)!

真也が最近沖縄に行ってきて教えてくれたのは、その作品はまだ使用されているというのです。今年で3年目です。そのプロジェクトから利益を儲ける代わりに(プロジェクトの当初の意図であり、たとえばアフリカにいるならば、確実に説明する必要がないこと)、市場の老女がとても肥沃な土を保っているという。これはもしかしたら、僕がそこへ戻って「おばさん!どうぞ!使ってくださいよ!」と言うのを、待っているのかもしれない。

エリック・ヴァン・ホーヴ
© Eric Van Hove & Shinya Watanabe

話を少し戻すと、都市環境の中で展示されているあなたの作品からは、自然を思い起こさせる、もしくは、何か原始的なものを使用している傾向が目につきます。たとえば、砂、貝、岩、動物や、ヒマラヤ山脈、ネパール、象牙海岸や東ヨーロッパの荒野のような所にいる地方の人々、というような要素の使用です。これは、伝統的なもの、それとも、失われたものへの回帰ですか?これが作品の傾向としてあるかどうか話してもらえますか?

おそらくロマンチックな物語がここにはあります。日本が遠いからというだけでなく、たとえば思想家の西田幾多郎のもとへ導かれ、有益な補完性を求めてということでもありました。もし、失われた自然との繋がりに興味をおぼえるというのであれば、直観力を有利に働かせて、先験論者がなしたような詩的なタスクとしてなら理解することができます。文字通り世界に刻むことを意図している、たとえば「胎書シリーズ(Metragram Series)」の巡礼のような作品やシリーズを通して、現代西洋美術の媒介物につきものの独断論をリサイクルしたくなります。ヘンリー・デイビッド・ソロー(1817~1862)は、彼のエッセイ「散歩」で、「ネイチャーライティング」の考えを挙げ、このようにも言っている。『彼は、彼の代わりに紡ぎ出される詩で風や水流に感銘を与えることができる詩人であろう…(注:翻訳者の訳による)』。この理由から、作品には様々な要素が存在するのでしょう。あと、僕は放浪癖があるから、部分的に失われた場所を利用して、今日ありがちなヨーロッパ中心主義的なものを超越し、地理を超えて精神的な理想に到達するのです。あなたが言うのと逆で、僕は文明を思い起こすのに、純粋な自然でよりも、できるだけ都市環境で制作しているのです。

質問の中で、作品の一過性な性質についても指摘しているようですが、太古から存在する、一過性と永続性の境界としての芸術品の現状についての質問であることを信じています。

僕は、アートワークを「一過性」と分類するようになる社会が、時間との遠ざけられた関係を証明すると思っています。アートワークに「一過性」とラベル付けすることは、オブザーバー側が「具体的である」という逆説からのみ行われる。社会が下手な形容でアートを分類するという事実は、僕にとっては、芸術の墜落の高まりや抽象化を証明するものでしかない。たとえばアフリカでは、みんなが人生が儚いということを知っているから、一過性のアートについて語るものは誰もいない。極言すれば、人生の儚さは正確には時間と呼ばれるものです。絵画は燃えつき、ローマの彫刻は、後の帝国により建築材料として使用される。また、永続性あるバッハとハイドンの楽曲は、初期に幾多も繰り返された後に、同じように一人の観衆のためにたった一度だけ演奏される運命にある。すなわち、パリンプセスト(羊皮紙の再生紙で再利用の意)です。

オリジナルは存在しないのです。それは西洋のユートピア、都市伝説です。

続きを読む ...

【ボランティア募集】翻訳・編集ライターを募集中です。詳細はメールでお問い合わせください。
デッドウッド
MoMA STORE