ドナルド・ロドニー:ヴィセラル カンカー

HAPPENINGText: Yuki Ito

ここまで示したように、ロドニーはしばしば身体の一部を素材とする。その最たる作品が、《In the House of My Father》だ。ロドニーの手のひらに乗るのは、手術で切除された自身の皮膚をピンで留めて家に見立てた彫刻《My Mother My Father My Sister My Brother》である。《Visceral Canker》とは異なり、写真作品の《In the House of My Father》は個人的な記憶——自分と同じ病で父親を亡くした際に制作された。


ドナルド・ロドニー《In the House of My Father》1997年、アーツカウンシルコレクション サウスバンクセンター蔵

家も皮膚も自身の帰属先を象徴するものであり、外からの様々な刺激から体を守る役割を持つ。しかし同時に、家は警察に対して無力であり、皮膚は病に対して無力である。例えば、犯罪を犯す疑いのある人物を警察が逮捕できるサス法は、1980年代に人種的マイノリティに対して不当に適用された悪名高い法律だ。これにより黒人コミュニティがしばしば警察による過剰な監視や家宅捜索の対象となった。手を握れば瞬く間に壊れてしまう「家」は、脆く壊れやすい身体と黒人コミュニティが直面してきた社会不安を暗示している。

身体性を強調するこれまでの作品とはうってかわって、1997年発表の《Psalms》は身体の不在が鍵となる。センサーとカメラをつけた空席の電動車椅子が障害物に衝突するたびに自ら軌道修正をし展示室内を彷徨い続ける本作は、自身の個展のオープニングに物理的に出席することが叶わなかったロドニーの代替人格として制作された。ひとりでに彷徨う車椅子はどこか寂しげで孤独だが、方向転換しながらも走行をやめない様子は人種差別と遺伝病、二つの病と共に生きてきたロドニーの旅路を思わせる。この作品において、身体の不在は単なる欠如ではなく、欠如を通して身体を想像させるものだといえる。

ロドニーにおいて興味深いのは、根本には人種差別への(あるいは病に蝕まれる身体のままならさへの)強い憤りが横たわっているにも関わらず、多くの作品において、激しい慟哭よりも抽象化された静かな怒りがみてとれる点だ。そして、その「静けさ」は決して社会や人生に希望を見出せないネガティブな諦念によるものではないことを指摘しておきたい。むしろ、彼の「静けさ」には、彼という存在がいること/いたことを発信し続ける「生」のパワーがある。


マイク・フィリップスとゲイリー・スチュワートによるスクリーン録画デモより《Autoicon》1997-2000年(デモ撮影2025年)、ドナルド・ロドニー財団

この点で、生前にロドニーが構想し、死後に友人らが完成させた作品《Autoicon》は、示唆的だ。ウェブサイトとCD-ROMから成る本作は、デジタルの情報体としてロドニーを生かし続けている。というのも、鑑賞者はパソコンにメッセージを打ち込むことで、大量の医療記録、インタビューや記憶からシュミレートされたロドニーと対話をすることができるのだ。

《Britannia Hospital》シリーズの素材的な脆さを考慮すると、ある時点から彼が明確に「生きた痕跡を残す」あるいは「存在し続けることで抵抗する」方向へ舵を切ったのは、「病」や「被差別者」といったときに連想される脆弱性とは一線を画す、レジリエンス(困難や逆境に直面したときに折れずに回復する力)の表れだと言えるだろう。そして、「レジリエンス」は、ロドニーの芸術を理解する上で欠かせないものとして浮かび上がってくる。二つの病に対して受け身の痛みに沈むのではない、ロドニーのしなやかな強さは展覧会全体を通じて胸に迫るものがある。

Donald Rodney: Visceral Canker
会期:2025年2月12日(水)〜5月4日(日)
開館時間:11:00〜18:00
休館日:月曜日
会場:ホワイト・チャペル・ギャラリー
住所:77-82 Whitechapel High St., London E1 7QX
TEL:+44 (0)20 7522 7888
https://www.whitechapelgallery.org

Text: Yuki Ito
Photos: Yuki Ito

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