三原聡一郎
PEOPLEText: Satsuki Miyanishi
子供の頃によくお風呂で遊んだ泡、ふわふわなメレンゲ、ビールの泡、私たちの常に身近に存在するこの泡について熟考した経験がある人はそう多くはないかもしれない。
アート、エンターテインメント、アニメーション、マンガの4部門において優れた作品を顕彰する第17回文化庁メディア芸術祭のアート部門で優秀賞を受賞した三原聡一郎の作品「 を超える為の余白」は、エアーポンプ、電源制御回路、水、シャボン液、グリセリン、エタノールそして電気を用いて空間に「泡」を発生させるインスタレーション。形を変化し続ける泡という物質を巧みに用い、私たちが主体的に考えるきっかけを与えてくれるこの作品は、2011年より作者が展開する「空白」のプロジェクトの一環として制作された。
音響を基軸にしたシステムを利用した作品などメディアアートの分野において、国内外で活動を行う三原氏に作品や制作への思いについて話しを伺った。
現在滞在中のオーストラリアは真夏。40°を超える日もあり、毎日こんな格好でラボに通っています。
一見理科の実験のようにも見える、泡を使った今回のインスタレーション「 を超える為の余白」は、2011年より展開している「空白」のプロジェクトの一環として制作されているそうですが、「泡」のどういった性質に注目し作品の表現に用いたのですか?
2011年3月11日以降、色々な角度から自分の国の状況を考え続けてきました。規模の大きさと深さを把握すること事態ですら困難なスケールであること、そして今も現在進行形で状況が変遷しているという印象がまずありました。その印象から不定形で流動的な素材を探し始めました。試行錯誤の結果、可塑性を感じられたという点、空気を包んでいることで存在非存在の曖昧な質感が最も感じられる点で泡を選びました。「空白」という言葉はここから自然に出てきました。多くは失われましたが、それを空虚ではなく空白として、未だ残された問いとして、現状を捉えたいのです。泡は生成し続けないと一定量を保てず、有機的な事柄のメタファーとして奥行きを与えていると思います。作品で常時泡が生成し続けるように、問い続けなくてはならないと思っています。
第17回 文化庁メディア芸術祭 アート部門 優秀賞「 を超える為の余白」 © 三原聡一郎
最終的には鑑賞者が作品をつくりあげることが理想だなと感じています。それは作家の責任を転嫁するのでもなく、解釈は委ねますという安易なことでもなく、作品体験を経て、自然に言葉や感情が出てくるようなトリガーでありたいなと思います。何故なら、個人から出来事を捉えることが今少し困難なように思えます。それは、この出来事の当事者性も関係していると思います。行政上の線引きでは、僕はあてはまりませんし直接的な被害も有りませんでした。しかし国を出れば、多くの人が僕を当事者として認識します。それらとも離れて僕自身の意識もあります。一概に線引きなどできなく、全ての人が個別の当事者性を持っていると思うのです。それぞれが個別の意見を持ちえるし、それらは全て尊敬されるべきだと思うのです。多くの人がこの出来事に対して、各々の体験を通した距離感での捉え方があると感じています。
見上げるような泡の堆積の移ろいの印象深さは、抽象的であるがゆえに多くの人とトリガーとして共有する為にはとても適しているのではないかと感じます。
「vexations – composition in progress」
毛利悠子とのコラボレーション作品。歴史上、極めて長時間を要する楽曲の一つといわれるエリックサティのヴェクサシオン。840回の繰り返しをコンピュータを介し演奏/録音、解析(楽譜化)〜再演奏/録音と繰り返すことで、会場の空間特性やノイズの偶然性も取り込みながら音列構造を変容させていく。
三原さんの作品は音響や、デジタルを用いた作品のイメージが強いのですが、常に新しい素材を扱い続けるインスピレーションはどういったところから得ていますか?
まず現状の表現を規定するフレーム自体を認識することでしか、表現とは何か?アートとは何か?という根本的な問いに対峙することはできないと考えています。そのフレームを考えることが、アートを含めた様々な問題とつながるトピックであると非常に興味が湧いてきます。必ずしも新しい必要性はないのですが、僕は自分の生活を成り立たせているテクノロジー全般に興味があり、現在、色々なテクノロジーを非専門家の個人が扱える可能性が拡がっているので、可能な限り色々と試したいと思っています。
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