ジャン・ペイリー

PEOPLEText: Emma Chi

小さい頃からデッサンを学び、1984年には中国美術学院の油画科を卒業した。家庭や個人の成長する過程で学んだあらゆる要素が引き出されたジャン・ペイリーの作風には常に理性と厳密さがある。彼は杭州の医師の家に生まれた。自身の家について、彼はこのように面白おかしく言っている。『毎日両親が帰ってくると、服からはホルマリンやヨードチンキの香りが漂って来ました。食卓での会話にもあらゆる複雑な医学用語が飛び交っていました。高校卒業時に医学研究所で臨時職員をしていたのですが、その影響もあり、後に医療用ゴム手袋をテーマにした「X?」シリーズを制作しました。 』

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80年代、ジャン・ペイリーは中国現代アート界ですでに活躍していた。彼やゲン・ジエンイーなど、杭州のアーティストたちは「85新空間展」を開催した。当時の全ての情熱溢れる芸術青年と同じく、彼も積極的に絵画・インスタレーション・パフォーマンスなどを様々な手法で制作し発表した。1986年に創意体験を主張する「池社(杭州のアーティスト集団。アートは池という概念のもと名付けられた。)」を設立した。1988年、中国映像アートの処女作が彼の手の中で誕生した。この「30×30」という名の作品は重苦しく坦々としている。3時間にも渡る映像の中で、ジャン・ペイリー自身が落として割った一枚の鏡を辛抱強く張り合わせ、また落として割るという繰り返しをまるで苦役のように演じている。彼曰く、『全く未知のメディアを利用して行うチャレンジには大きな吸引力があり、私を引きつけます。例えば絵を描くのに慣れている人が突然その方法を変えて創作するなど、その変化自体に意義があると思います。とてもシンプルですが、これが初めての映像作品である「30×30」をつくった時の私の考え方です。』

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1995年、ジャン・ペイリーは絵画という手段を放棄し、映像作品やそれに関連した撮影、インスタレーション作品の制作に全力を注ぐようになりました。『絵描きは沢山います。上手な人も少なくありません。私自身が絵画の感覚を見つけられなかったということもありますが、絵を描くことはもう十分だと感じました。もう描く必要は無いのだと。例えば以前描いたサックスを今になってまた描いたとしても以前描いたものを超えることはないだろうし、描く必要も無いのです。』と彼は言う。いくつかの映像作品はこの時期に相次いで世に出された。例えば「宿題1号」「児童楽園」「水:辞海標準版」(辞海とは中国で総合辞書を意味する)「相関のリズム」「適切でない快感」などである。『あの頃はちょうどテレビがブームになっていて、そこでテレビと関係のある作品を制作しました。根本的な動機はテレビ文化に対する疑問でした。人々の生活はテレビの影響を大きく受け、テレビが我々の日常生活に侵入してきました。それは手軽で簡単なファーストフードのようにその影響と表現方法のパターン化をもたらしたと思います。私はこれに対して疑問を呈したのです。』

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