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ファルコ

PEOPLEText: Eric Willemsen

『Drah di net um oh oh oh – schau schau der Kommissar geht um oh oh oh』。
これはあなたにとって訳がわからないだろうか、それとも何を言っているか分かるだろうか。

ではこれは?『Amadeus Amadeus Amadeus Amadeus Amadeus Amadeus Amadeus Amadeus Amadeus Amadeus, oh oh oh Amadeus – Come and rock me Amadeus』。

このミュージックが頭の中でなりだしたら、あなたは80年代の有名なロックスター、ファルコを思い出さないわけがない。

500万枚以上の世界でのレコード販売を記録し、そして今でも最大級の売り上げを誇るオーストリアのポップミュージシャンだ。1998年にこの世を去ったファルコは、生きていれば今年で50歳の誕生日を迎えることになる。従って最近のオーストリアは、数々のスペシャルイベント、ヒットCD、ドキュメンタリーDVDでファルコを称賛している。

ファルコ、本名ヨハン・ヘルツェルは1957年2月にウィーンで生まれた。オーストリアの首都の労働者階級地区にで育つ、普通の男の子のように見えた。10代でバス奏者となり、70年代中頃、地元のハードロックバンドに入る。1977年にドイツのスキージャンパー、ファルコ・ヴァイスプロークの名前を取って使うことを選んだ。後にファルコはウィーンのハードロックバンドを去り、ソロのロックシンガーとしてのキャリアに向かい、間もなく国際的にブレイクする。彼の曲「秘密警察」(1982年)はヨーロッパとカナダでのポップチャートに入り、数年後、オランダ人のプロデューサーチーム、ボーランドと組んだあとには「ロック・ミー・アマデウス」(1985年)で世界一位の座を築き、アメリカのチャートで3週間連続トップを記録した。この曲は後にオーストリア「今世紀のベストシングル」として選ばれる。1年後、さらに話題となった「Jeanny」(1986年)をリリース。ファルコはこれをラブソングの一つの形と言ったが、多くのラジオ曲は19歳の女が誘拐されることを表現したこの曲の放送を拒んだ。

「Jeanny」がファルコの最後の世界ヒットとなったが、何れにしても人生は劇的に変化する。現実的な青年が、突然25歳で崇拝される億万長者になった。当時のインタビューでファルコは、彼のロックスターとしての肩書きを扱うことの困難を認めている。これまで彼がしてきた普通の生活を送ることができなくなった。

さらに、その後の彼のプロジェクトは全くヒットしなかった。オーストリア、ドイツ、スイスの多くのファンは変わらずにレコードを購入したが、世界のミュージックシーンからは完全に消えてしまった。プライベートでも問題を抱え、鬱に沈み、アルコールとドラックに依存した。90年代にウィーンからドミニカ共和国に移動し、人生の再出発を決めた。1998年、41歳の誕生日を迎えるほんの少し前、彼は謎の車の事故で死んだ。交差点で、地元のバスがフルスピードで彼のジープに激突。後の調査によると、ファルコは大量のアルコールとコカインを接種していたという。


© Osterreichische Post AG

彼の悲惨な死から約10年が経ち、オーストリアはこの国際スターとなったウィーンの少年を忘れてはいない。昨年はオーストリア郵便局が「ロック・ミー・アマデウス」の記念切手を捧げたが、今年はより様々な方法で讃えられている。ソニーBMGは彼のベストを含む2枚組のCDをリリースし、ファルコの人生のドキュメンターリーを含むDVD「Hoch wie nie」も発売。さらにオーストリアのテレビやラジオ局が、ファルコの特集を組む。ウィーンの町中にあるクラブU4(ファルコが良く通っていた)では、ファルコの追悼パーティが2月21日に開かれ、沢山のアーティストが参加した。他にウィーン、オーストリア周辺のコンサートには、ファルコのそっくりさんが登場。またバイオグラフィーなども最近ブックストアで販売されている。ファルコの映画を手がける監督、トーマス・ロスもいる(2008年前半に公開予定)。オーストリアはこれらと共に、ファルコの死の10年目を大々的に確実に、記憶に留めるだろう。

Text: Eric Willemsen
Translation: Yurie Hatano

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