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若野 桂

PEOPLEText: Kazumi Oiwa

現在のグラフィックやイラストレーションを語る上で外すことはできないアーティスト、若野 桂。80年代から活動し、様々な時代の先端をイラストレーションを駆使することで、映像やプロダクトに落とし込んできた活動は、後の世代にも大きな影響を及ぼしてきた。
ベースを名古屋に置きつつも、世界発信を続けてきた若野氏が、久々に東京での個展を開催する。7年半ぶりの展示は新旧作品を改めて見直しての構成になる。
展覧会直前の忙しい中時間をいただき、若野桂氏に若野桂の現在・過去・未来についてお話を伺った。

若野 桂
World Famous Final(1999年) © phil co.,ltd.
mad professorに捧げたイベント(World Famous)用ポスタービジュアル

まずはじめに、自己紹介をお願いします。

若野 桂(もしのかつら)といいます。1968年1月5日岐阜県安八郡神戸町生まれです。
仕事ではイラストレーションをプラットホームにしてデザインや映像までを作ります。
今年の11月より名古屋工業大学から準教授として招かれ、講義での工業デザイン関するデザインと映像の研究、大学院生たちと映像の制作などを行っています。

現在の仕事に至った経緯を教えてください。

高校生の時にパンク系のバンドと美術部に居たので、何となくアメコミや洋楽のレコードジャケットを描くような職業に就きたいと思っていました。とくに洋楽のレコードジャケットは有名アーティストやイラストレーターが描いてる事も多く、音楽の好きな高校生の私にはあこがれの世界でした。

1985年頃はDJやラップを始める友達が沢山居たので、変わった絵を描いていた私は、クラブ・フライヤーのデザインを頻繁に頼まれるようになり、昼間勤めていた印刷会社の仕事での知識を生かして安上がりに印刷してあげました。安く上げた分をデザイン代に回せた事でいろいろ遊ぶ事ができたので、これがよい勉強になりました。

印刷会社は何社かにバイトで居た事もあり、途中にはCGや写真の暗室合成で宇宙のイメージのフィルムを制作する会社に居た事もありました。このCGの会社で初めて発売されたばかりのMACIIをさわりました。信じられないかもしれませんが、メモリーは4メガ、HDは5メガという時代でした。この頃に今でも描いている画風を描きはじめましたが、とても時間がかかり、まともなプリンターもない時代なので、描き上がった絵の出力に困りました。しかし、今ではすっかり主流となったDTPという概念がまだ全く理解されていない時代で困難な状況でしたがCGのRGB画像をCMYKに置き換えてそのまま4色の製版フィルムに高解像度で落とせるという事に多大な可能があったので嫌になったりはしませんでした。

アナログのイラストをカメラ撮影してポジにしたり、原画を印刷所の巨大なスキャナーで取り込み、色の加減も画面のゴミとりもデザイナー任せしかない不安定な時代でしたから印刷物ができ上がると色のセンスも何もかも台無しになっている事が多かったのです。ですから、偉そうに安値の仕事を頼んで来ては最低のデザインしか作れないセンスの悪いグラフィック・デザイナーの連中が大嫌いでした。もちろん、デジタルに可能性を見いだす理由は他にも数多くありましたが、「印刷物と自分の作品の色が全く違う」というのは致命傷でしたので、DTPの概念が実用化されたという事自体が大きい事件でした。

1990年頃からDJを沢山あつめてイベントを主催するようになり、ヒップホップ、ハウス、テクノ、ラガマフィン、ジャズ、ソウルなどのあらゆる音楽についてどっぷりと浸かっていました。暇さえあれば、名古屋の今池にあるデニーズに集まってはコーヒーだけ注文して、地元のDJやミュージシャンと年がら年中「こういうジャケを描いてくれ」とか「だれそれのアルバムがスゲーよ」とか「こういう音にこういう映像つけたらどうだ」などと何時間も議論していましたから、いっつも居るウエイトレスさんにおかわりばかりするのでムッとされたりしていました。

その後、昼間の印刷会社の仕事がお金だけを目的にしていてあまりに未来がない事を感じて辞めてから、それまで本腰を入れていなかった自分の作品を主力に生きて行こうと思いました。はじめの頃はどうしようもなくへたくそで無知で貧乏になりましたが、理想を追求してありとあらゆるジャンルにも飛び込んで仕事し、10年もやっているうちに僕に仕事を頼んで来る方が何を求めているのか分かるようになり、やっとプロになったと思いました。

若野 桂
Evian World Campaign(2003年)© phil co.,ltd.
Evianの世界キャンペーンのボトルラベル「Car」。他の「Girl」「Jazz」の計3種

イラストレーター、グラフィック・デザイナー、アート・ディレクター、映像作家と多くの事をされていますが、どれに重きを置いているのでしょうか?

どれでもありません、それぞれの肩書きを並べるのは説明がしやすいからやっているだけなのです。実際にはこれらを複合したものが私の仕事であると考えます。ただし、ここ5年以上は自ら「イラストレーター」を名乗る事はありません。「イラストレーター」とは、クリエイションの到達点がイラストレーション止まりであると言っているようなものだからです。サンローランのスタイル画が優れたイラストレーションであってもイラストレーターとは呼ばれません。

90年代までは私は日本のイラストレーションの復興に熱意を燃やした事もありました。田辺ヒロシ君や私の登場で起こったと言われる日本のイラストレーション・ブームは優れたわずかの才能を世に送り出したとブームに便乗しただけの膨大な低いレベルの方々をも生み出してしまいました。
その影響なのか、日本においての「イラストレーター」という肩書きのイメージは「緊張感がなく、だれにでも描けそうなもの」といった具合に恐ろしく悪いようです。そういった人達のイメージがそうさせているわけですから仕方ありません。

しかし、私はイラストレーションを発展させる事によって工業製品のデザインを作り、抽象絵画の延長としてグラフィックデザインを作ります。イラストレーションを一秒に30枚描けば映像になり、コンテの段階のあとセットと役者を使えば実写ができます。凝ったイラストレーションというものは例えば人物画であれば化粧や髪型の趣味や洋服はもちろん、家具や町並みまでを描く事も多いのですから、そこで洋服の趣味から家具の選定までのアート・ディレクションが不可欠になります。さらに2003年以降から映像制作におけるMACのマシンパワーも実用レベルに達しているので、仕事の多様性に対する設備の不足もあまり感じなくなりました。

私は根っから研究したり分析したりする事が好きな性分なので、いろいろな技術を自分のクリエイションに取り込んでいます。肩書きはますます増えると思いますが、「肩書きが一つである事が真面目」という事でもないでしょうし、この先に歳をとって体力も衰えれば一つに落ち着くのかも知れませんから、やりたい事ができるうちにあれこれ修練を積みたいと思っています。

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