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米谷 健+ジュリア

PEOPLEText: Rafael de Lima

日本人とオーストラリア人のアーティストユニット米谷 健+ジュリア。彼らの生み出す不思議な感覚を引き起こす作品は、優美で洗練された感覚と彼らの社会的、政治的関心をうまく組み合わせ、自然のぬくもりと科学の客観性と工芸による手作りの触感を並置する。

2009年にオーストラリア代表としてヴェネツィア・ビエンナーレに出展、2013年にはシンガポール・ビエンナーレに出展した。ウランガラスのシャンデリアを使用した彼らの代表作であるインスタレーション「クリスタル・パレス」は、2011年の福島の原発事故からインスピレーションを得ている。

現在行われている展覧会「最後の晩餐」(塩のみ使って聖書の物語の静物画的描写を立体で表現したインスタレーション作品。)は、シドニーのサザランド・シャイアにあるヘーゼルハースト・リージョナル・アート・センターにて5月18日まで行われている。

米谷健+ジュリア
Global Warming is Over! If you want it! (2010)

初めにジュリアさんにお聞きします。小さいころから東京に住んでいたように日本語が堪能ですが、どのように日本語を学びましたか?またどのように日本と関わりを持っていますか?

若い頃に東京で過ごしたのは2年間だけです。21歳の時にワーキングホリデーのビザで戻り、2年間日本語学校に通った後、東京大学の修士課程に入学しました。その後オーストラリア国立大学で日本史の博士号を取得し、現地での研究のために再び日本を訪れました。健は、私が小さい頃日本人のお手伝いさんから学んだ日本語が潜在意識に刷り込まれているからではないかといいますが、ほぼネイティブレベルの日本語を身に付けたのは、実は大人になってからなのです。

日本と私はいつも近い関係にありました。でも同時に、自分はいつもれっきとした「ガイジン」でもあったわけです。日本はここ20年で大きく変化したと思います。日本語を話す外国人に出会う機会がかなり増えてきたおかげで、彼らとすぐに親密になることが容易になったと言えます。また2人で長い時間沖縄で過ごした経験も、単純に二分化する考え方から離れ、日本を別の視点で見てみる良い機会となりました。そこでは、健も部外者つまりナイチャー(沖縄で県外から来た人のことを言う方言)ですからね。

日本とオーストラリアの2つの国で過ごす機会があることは幸運です。様々な事柄の良い面と悪い面を見ることができる中間地点として、重要な視点を私たちに与えてくれるからです。

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Ultrabuddha (ウルトラ仏陀)– だから私は救われたい(2010)

健さんはオーストラリア国立大学でセラミックについて学ぶ前は普通のサラリーマンだったと伺いました。日本からオーストラリアへ行き、セラミックを扱う現代アーティストになったきっかけを教えてください。

オーストラリアに来れたことはラッキーでした。もしそのままサラリーマンを続けていたら今頃山手線の線路に飛び込んでたんじゃないでしょうかね。とは言ってもオーストラリアにきてからは、結構大変でした。東京の外国為替市場で何十億の米ドルと日本円の取引をしていた日々から一転して、こんどは中国系オーストラリア人経営の日本食レストランで時給5ドルの皿洗いでしたから。でもたとえ汚れたお皿からでも自由を得たおかげで、社会、両親のプレッシャーから逃れ、アートに出会うことができました。

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Crystal Palace: The Great Exhibition of the Works of Industry of all Nuclear Nations (2013)

二人はオーストラリア国立大学で出会ったのですか?コラボレーションを始めた経緯を教えてください。

私たちはオーストラリア国立大学に通う前の1995年に東京で出会いました。二人ともイタリアンレストランでアルバイトをしていました。それからかなり後の2009年のヴェネチア・ビエンナーレがきっかけで、私たちのコラボレーションは始まりました。

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