馬良(マー・リャン)

PEOPLEText: Hiromi Nomoto

夕暮れ時、聞こえて来る太鼓の音を辿ると、そこはマー・リャン(馬良)のスタジオだった。上海の開発の為に取り壊された威海路696号アートエリアにSHIFT中国語版オフィスがあった頃、アーティストであるマー・リャンのスタジオもそこにあり、エリア内でたまに彼を見かけることがあった。現在マー・リャンのスタジオは上海郊外にある別荘地の中にある。彼の新しいプロジェクトが始まると聞き、彼へのインタビューと新しいスタジオの見学を試みた。

マー・リャン

あなたの名前 “馬良”(マー・リャン)は物語に関係しているそうですね。

中国の昔の童話「馬良の魔法の筆(神筆馬良)」は、特別な力をもった筆で描いたものは本物になってしまうという話です。絵を描くある少年・馬良。彼はとても上手く、まるで絵が生きているように描きます。中国の人はみんなこの童話を知っています。子供たちもそうです。

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マー・リャンの写真館, No.04 / 2011

大学卒業後は広告会社で監督や美術監督をしたそうですね。どのようなことをしたのですか?

そこではデザイン図の様なものを制作しました。背景のものを全て描きます。何かを置いて撮影する場合は、全ての大道具や小道具を作ります。例えばコップのようなものは店で買うことができます。しかし、(机の上にあったマスクを手にとり)このようなものは自分で作らなければなりません。もしも監督に「マスクが必要だ。これこれこういうマスク」と言われたら、私はそれを作るのです。だから大道具や小道具をどうデザインし、どう作るのかを学ぶことができたのです。

美術指導の仕事とはつまり、一つの広告の中で、目に見える全てのものを管理することです。全て準備を終えると、カメラマンが来て撮影をします。この(美術の)仕事を一枚の紙とするなら、カメラマンは一本のペンです。そして広告ができ上がる。この仕事を5年ほどしました。その頃、中国のテレビコマーシャルには勢いがあったので、私の仕事は繁盛しました。最終的には三十数人ものアシスタントがいるフリーランスのチームになりました。私はそのリーダーでした。

この5年間で、どのように大道具や小道具をつくるのか、多くの仕事の方法を学び、最後は一人で何でもつくれるようになりました。私の今の仕事はその頃学んだものです。それから数年はディレクターをして、全て合計すると9年この仕事をしたことになります。

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二次的唐詩, No.8 / 2007

既に自分の地位を築いて技術も持っていたのに、なぜアーティストになると決めたのですか?アーティストになることに心配なことはなかったのですか?

私がディレクターだったとき、二人のプロデューサーと私でプロダクションハウスを開きました。仕事はとても順調でしたが、しかし私は突然不眠症になりました。眠るときに気分が冴えなくて、自分は今の生活が好きではないんじゃないかと毎日考えるようになりました。この状況を変えなくてはいけない、そう考えた私は会社と会社の資金を全て彼らに渡し、会社を辞めました。二人は良い友人ですから、彼らの仕事に影響が出ることが心配でした。始めのうちは大変そうでしたが、彼らは今もその会社を続けています。

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