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スケルツォ

PEOPLEText: Shinichi Ishikawa

「お笑い」のイメージとは異なる「笑い」への独自のアプローチ。映像・音楽・言葉で織りなすスケルツォにはイタリア語で「軽快な曲」、「冗談・トリック」という意味があります。「見慣れた日常を一変させる」をコンセプトに日常の中のあらゆるものをスケルツォとしてとらえ表現していきます。(スケルツォ資料より)

「笑い」という感情はどうも、「悲しみ」、「怒り」といった感情より軽く見られているような気がする。でも、優れた芸術表現にはどこかユーモラスな一面を持つことが多いのは否定できないと思う。例えば、いわゆる名作と呼ばれる映画の多くは、それがメインのテーマではなくでも必ずユーモアを感じる印象に残るシーンがないだろうか?

札幌を拠点として活動するスケルツォは加賀城匡貴のプロジェクトでり、「笑い」をテーマにした独自の映像表現を展開している。過去の3回、札幌、京都で公演をおこなっており、市内では教育文化会館、時計台ホールで百人単位の動員がある。ステージでは映像をメインにしながら、それにライブでナレーションや、サウンド、時には寸劇のようなものが加わる。2003年度は2月の札幌でも3公演を最初として、京都、東京と連続して公演を行うよりパワーアップした活動となっている。この勢いの良さは札幌のシーンではかなり注目すべきものだ。

スケルツォの内容を説明をするのは難しい。映像ではあるが、映画ではない。「笑い」であるが、コントでも漫才でもない。でも、映画的な要素もあるし、コント的な要素もない訳ではない。お客さんの存在自体も重要な要素だとも感じられる。ステージの様子をヴィデオで観てもまた違う。やはり、実際に会場に足を運んで体験することが重要だ。

その内容は映像と「笑い」というところで集約されていると思う。親類からもらったビデオカメラで友人らと遊んでいるうちに、北海道をロードムービふうに撮影した作品をふと応募したところ「大林宣彦のふるさとビデオ大賞(97年)」受賞したことによって、映像作家としての道を決意。そして、イギリスのボーンマス芸術学大学に入学。しかし1年で中退、その理由は彼は自分なりの映像の方法論を見つけたため、もう学ぶ必要がなくなったという。その表現の方法論こそが、最初に説明したスケルツォという。これほどポジティブな理由の「中退」というのもあまり聞いたことがない。そのエピソードにしろ今回の公演の個人のプロジェクトで、考えらない大規模なスケジュールにしろ、そういった準備段階までがスケルツォの表現のセンスを感じさせる。

スケルツォは「笑い」だが、「お笑い」ではない。よくそう説明される。ちょうど1年ほど前、札幌時計台ホールにて「スケルツォ」を観た。どうも、フライヤーだけのイメージだと演劇的な先入観があり、同時に演劇に対して多少の偏見のある僕としては恐る恐る会場に足を運んだ。こういったアーティステックなイベントで時計台ホールというのは珍しい。会場は満員で、客層は幅広く、そこからイベントの内容を連想させることもできなかった。イベントはスタートした。映像は流れた。クラクションに振り向く人の映像で、クラクションの間隔がだんだん狭くなっていって、最後その音がクラブふうのサウンド・トラックとリンクしてクレジットが表示されていくカッコの良いものだった。この一連の流れで僕はすっかり安心し、期待に胸が膨らんだ。コレはおもしろいぞ!と。その後は、予想を裏切らない映像とナレーションをメインとして、思わず「ニヤリ」とするステージが続いていった。

その「笑い」について人に説明するのは難しい。僕の主観になってしまうが、もともと「笑い」の対象ではない物事や出来事を、違う視点からスケルツオ(=加賀城匡貴)が提示することによって「笑い」にしてしまう一種のアートなマジックだと思う。現代のコンテンポラリーアートの表現が、作品の技術うんぬんよりもファイン・アートに代表される、誰もが見慣れているものをギャラリーなどで、あらためて「提示」することによって、新しい価値イメージを観る側に提供するのに似ているのではないだろうか。

Text: Shinichi Ishikawa
Photos: Shinichi Ishikawa

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