「ダイアリー」展

HAPPENINGText: Mark Griffith

ここブダペストでは5月25日まで「カレンダリウム」(ハンガリー語で日記を意味する)というインタラクティブな展覧会がC3ギャラリーにて開催されている。カーソルを動かすのに赤色のボールを操作し、スクリーン上の洒落た赤いボタンに触れてクリックするもので2人のハンガリー人、ミクロス・スザレイと、今月初めに行われた「スモールトーク」でのデザイナーの一人でもあったロバート・ラングによる作品だ。

彼等は、日記がそうであるように「カレンダリウム」を進行中の作品としている。しかし、スクリーンが示唆するものは多面性と豊潤さを合わせ持つマルチメディアのきらびやかさであり、それは一体どのようにうまく成功させることができるかわからないものである。

作品の目的は共同作業的アプローチを築き上げることである。イギリス人なら複数の寄稿者が時間というものを、その経過、カレンダー、あるいは日記という隠喩を用いて描写する「スクラップブック」という言葉を用いるかもしれない。さらにスクリーン上のカーソルを動かすと、小さな窓が様々なテーマとともに閉じたり開いたりするようになる。同時に3Dのペーパー・ダイアリーが、スクリーンの一部で宙に浮いているかのように回転する。この回転するダイアリー上をカーソルで触れると個々人の時間の方向性を変化させることができ、これは実際かなりスリリングである。訪問するならこれを是非体験してみるべきである。

一方でこの小さな回転するダイアリーは興味深い矛盾を示唆している。時間を凍結させて多数の生活者の時間の流れを同時に眺めるということは、きわめて理想的にマルチメディア的である。しかし、同時に日記やカレンダーというものは、生活を本という形態に押しとどめる秩序であり、それは今日なお、人々に強い影響を及ぼす伝統的なメディアである。乾燥し、折り畳まれた、あのなじみ深い本という形態は「物語」という我々が我々の生活に望むものを与えてくれるわけであり、魅力的である。それはまさに起承転結という物語の王道である。

まさにこの増殖するマルチメディアは物語における「退屈さ」に打ち勝ったかのようにみえる。最近の映画(ドイツのラン・ローラ・ランのように複数のエンディングを有する)はこのような状況を変化させるかもしれないのだが、この多岐に渡る日記プロジェクトにはさらなる補足が必要である。一般的に我々自身の日記が明かすもの、それは焦燥感が漂うほど、なんの変哲もなく、変化に乏しいものである。

日記というものが我々自身の生活について語る物語ならば、一体だれがその対象となる読者であるのか?

我々が亡きあとの末代の家族や、物好きなゴシップ狂のためではないことは確かだ。「カレンダリウム」は時間に関する魅力的なスクラップ・ブックを産みだすのかもしれない。しかし、私がこの作品に期待するのは、第一により包括的では「なく」、第二に伝統的な私的刊行物より私的では「なく」することである。結果的にそれは、多くの人が書き込むけれど、ほとんど誰も読むことのないビジターズ・ブックのような書類になるのかもしれない。人々が私的に価値を置く情報というのは、秘密性を有するものであり、我々の多くは他人が読んでもらいたくないと思うものを読むほうが、そう思わないものを読むよりもわくわくするものである。

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