丁乙(ディン・イ)

PEOPLEText: Hiromi Nomoto

著名なアーティストはよく大勢のアシスタントが制作をしています。あなたはアート界やアートマーケットにおいて高く評価されているにも関わらず一人で制作しているそうですが。

はい。私は1ヶ月に1点、自分で制作します。アシスタントは2人います。一人は事務をして、もう一人は制作のアシスタントです。制作のアシスタントはキャンバスの準備をしますが、その作業は1日もあれば十分です。だから彼は毎日来て私にお茶を入れてくれ、自分の作品をつくり始めます。結局彼はアーティストになりました。

なぜ制作のほとんどを一人で行うのですか?

それぞれアーティストの制作方法は違います。これが私個人の方法です。

工作室场景

展示やベネツィア・ビエンナーレへの参加など国外で活躍されていますが、海外に拠点を移すことは考えないのでしょうか?また国内でも、北京などには移らず上海で制作し続けていますね?

私の作品と上海は関係しているからです。多くの人に「あなたが最も好きな場所は?」と聞かれます。私は真っ先に上海を選びます。
上海(の人々)は独立的です。上海以外の別の場所ではアーティスト同士は毎日会って、毎日一緒に御飯を食べています。しかし、もし今日上海で展示のオープニングがあったとしたなら、参加したい人だけが行けばいい。参加したくない人は行かなければいい。私はこの感覚が好きです。

アジアのアートマーケットでも鑑賞者の認識でも、具象の作品に人気が集まりがちです。この状況の中、純粋な抽象作品を創作し続けることは決して簡単ではなかったと思われます。このことについてお聞かせ下さい。

確かに純粋な抽象芸術は、アジアでは主流ではなく、東洋文化発展の過程で流行ったことの少ないものです。私の作品がマーケットで受け入れられたのは欧米からです。アジアからではありません。そして今に至るまで、私の二十数年の抽象な絵画には、大きな変化がありました。過去と現在とでは、若い世代の抽象への受け入れ方も大きく変化しました。

中国の現代アートは、中国の記号やイメージが重要で、そこから中国との関係や判断を引き起こします。しかし抽象のものは難しい。

私は1993年頃から、全ての中国現代アートに関する重要な展示には全て参加しました。ベネツィア・ビエンナーレに参加した際、私とシュー・ビン(徐冰:アルファベットを漢字のように描いた作品で知られる中国人アーティスト)は展示室が同じでした。私の作品は画面上で中国のイメージを表現することは難しいのですが、他の中国人アーティストの作品には毛沢東などのイメージが使われていました。1993〜1994年当時の展示は西洋ではメディアで沢山報道されました。しかし後日報道されたものを見ると、私についてのものはありませんでした。名前と小さな写真が載っているだけです。

美術館などが展示のアーティストを選ぶ際には、比較的公平に見てくれます。私は冷静に「メディアの反応とはこういうものだ。」と理解し、ゆっくり自分の道を歩もうと思いました。そこから徐々に創作活動を展開させていきました。

2号厅
ディン・イ個展「スペスフィック・アブストラクティド」民生現代美術館

あなたは中国の現代アートが世界の舞台に登場し、これが発展し繁栄していく様子を見て来ました。現在あなたは復旦大学美術学部で教鞭をとっているそうですね。現在の若い美術学生や若いアーティストをどうとらえていますか?彼らにどのような傾向や特徴があると思われますか?

2種類の現象があると思います。一つはマーケットでの可能性を探るように、直接(上の世代のアーティストを)真似をするアーティスト。もう一つは、大学在学中か修士課程中に国外へ留学し、更に多くの西洋コンテンポラリーアートの新しい角度から創作するアーティスト。この2種類のグループに分かれます。この2つのグループは未来では同じように自分の道を見つけることでしょう。

アートの道はとても多くの偶然性が存在します。その地域の政治や文化、経済、全てが関わっています。そしてある時代の接点に、ちょうど大きな出来事や転換が起こり、これらは多くの人々が思考するのを加速させます。

今後の予定を教えて下さい。

私にとって大きな問題なのが、制作の進み具合です。1年に大体12点しか制作できません。だから私は個展をするのが難しいのです。民生現代美術館での個展(2011年から2ヶ月間行われた展示「スペスフィック・アブストラクティド」)は、2年前から計画し始めました。今年の展示はまだ決めていません。8月にスイスで個展の打診を受けましたが、まだ答えていません。

Text: Hiromi Nomoto

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