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シーラン・パライ、シーリン・アリ「キャピタル」(死刑に値する)展

HAPPENINGText: Rachel Alexis Xu

『何かで読んだことがあった。ある死刑囚が、死の一時間まえに、どこか高い絶壁の上で、しかも二本の足をおくのがやっとのようなせまい場所で、生きなければならないとしたらどうだろう、と語ったか考えたかしたという話だ、−−−まわりには深淵(しんえん)、大洋、永遠の闇(やみ)、永遠の孤独、そして永遠の嵐(あらし)、−−−そしてその猫(ねこ)の額ほどの土地に立ったまま、生涯(しょうがい)を送る、いや千年も万年も、永遠に立ちつづけていなければならないとしたら、−−−それでもいま死ぬよりは、そうして生きているほうがましだ! 生きていられさえすれば、生きたい、生きていたい! どんな生き方でもいい、−−−生きてさえいられたら!・・・・・・なんという真実だろう! これこそ、たしかに真実の叫びだ! 人間なんて卑劣なものさ! その男をそのために卑劣漢よばわりするやつだって、やっぱり卑劣漢なのだ』−「罪と罰」ドストエフスキー(工藤精一郎 訳)

CAPITAL

無力で不運な人間が社会、そしてモラルの恣意性に局面したとき、それがアーティスト、シーラン・パライとシーリン・アリがミックスメディアをつかい、大胆にも死刑への観点を提示し、表現した展覧会「キャピタル」(死刑に値する)の特徴だ。

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この展覧会が政治の関心を引くのは、選択の余地のない死刑制度で知られていないシンガポールにとって適切な内容であるからであろう。数年にもわたる人権政治活動家による講義により国の制度が過酷、不当である非難されたが、公共との関わりや、法律の現実的な観点への追求などでの進歩はあまり見られてない。

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神経が高ぶり、重い問題に凝り固まった展示の悩むところはトラックに敷かれたような気持ちで観覧者が会場を後にする事だ。つまり論争できる能力の数量を超えてしまうという事。本展では多くの作品を色々な解釈が可能な様にし、みる者が問題に対し沈思できるようにする事でこれらを防いでいる。

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