越後妻有アートトリエンナーレ 2003

HAPPENINGText: Chiaki Sakaguchi

妻有2日目。妻有の旅館の朝ご飯はどこもおいしい。昨日見のがした中里村の作品を回ろうと、早めに宿を出る。車のハンドルを持つ右腕が太陽でじりじりする。今日は暑くなりそうだ。

旧小学校の校庭で、一人でいたい場所をつくる鉄のワークショップを子供たちと行った青木野枝の作品のところで、私はちょっと面白い体験をした。眺めのいい校庭にあった、そえ木を当てた運挺やジャングルジムの遊具を作品だと思いこんで感動したのだ。それにしても前回は、川俣正やキム・スージャのように、アートといわれなければ気づかない、風景にカモフラージュした作品がけっこう記憶に残っている。私が妻有に期待するものは、もしかしたらものとしての作品じゃないのかもしれない。

十日町のはずれにある長澤伸穂の作品に向かうつもりが、道を一本間違えて細い山道へ。マップよるとこの先にも作品があるので、そのまま峠のくねくね道を登り、けわしい坂道を歩いてのぼってこんもりした高台へ出た。一人ずつ茶室を体験する作品で、すでに5、6人の人が順番を待っていて、30分ほどかかるという。先に来ていた知人の『待つかいはあった』という言葉を信じて待つことにした。丸太を切った木陰のベンチに坐ると、正面には山、下の方にちらほらと集落の屋根が見える。山道を登って汗をかいた身体に風が心地よかった。クマンバチの羽音が近寄っては、また遠ざかる。静寂の中に夏の生命が溢れていた。そのうち頭の中がだんだん落ち着いて、妻有の時間にアジャストされていくのがわかった。


水内貴英

ここで過ごした時間は私が妻有にいた3日間で、もっとも贅沢で充実した時間だった。250ある作品を駆け足で見て回るよりも、こうして自然に癒されるひとときをゆっくり味わう方が豊かな気さえした。大きな木の上に高台からせり出すようにつくられた茶室では、風景に向かい合うテーブルに坐り、作家のたてた抹茶をいただきながら、茶碗の底に書かれたシンプルな質問の答えを書いた。作家の水内貴英は、前回こへび隊としてトリエンナーレに関わり、今回公募で参加。集落の人々と茶碗をつくるため1年間妻有に住みこんだ。無骨な茶器は、決してそれ自体美しいとはいいがたいが、この地を訪れる人々との出会いを創造しようとする、若い作家の素直な気持ちがあらわれていた。もうあくせく走り回るのはやめた。この妻有の風と自然を満喫しながらこの旅を楽しもうと、さわやかな気持ちで山道を下りた。


長澤伸穂「透けて見える眼」

峠を下り、長澤伸穂の作品「透けて見える眼」へ。10年以上空き家になっていた大きな古い民家に、3代にわたる家族の肖像が走馬燈になってゆっくり回転していた。うす暗い家の湿った匂い、きれいに磨かれた木の床の軋む音。お盆の頃、祖母の家へ帰省した夏を思い出した。顔や眼にあらわれる遺伝と同じように、こうした記憶も世代を越えて受け継がれていくのだろうか。

昨晩見落とした松代ステージ周辺の作品を見に行くと、バスツアーの一群がお昼ご飯に戻っていた。顔見知りのジャーナリストたちと情報交換。やはり印象的なのは「はるばる感」のある作品だと意見が一致する。そこへたどり着くまでのプロセスや時間に、このイベントの大きな意味があるだとみんな知っているのだ。「松代のあたりはもう展示会場という感じだけど、山の奥の方へいくともっとこの土地が感じられる」参加作家の田甫律子さんの言葉もその通りだと思った。


ジャン=ミッシェル・アルベローラ「リトル・ユートピアン・ハウス」

それから妻有名物の布海苔の入った蕎麦を堪能し、旅館に残って仕事をしているかわいそうな友人を迎えに津南町へ戻るつもりが、また道を間違えて山奥の作品にたどり着いた。こういう道に迷う時間だってムダなんかじゃない…。


ジャン=ミッシェル・アルベローラ「リトル・ユートピアン・ハウス」

フランスのジャン=ミッシェル・アルベローラによる「リトル・ユートピアン・ハウス」は、5軒9人という小屋丸集落に建てられた小さな家。ドーム型の屋根にはフランスの格言のようなものを訳した俳句ともことわざともつかない言葉が書かれていた。作品よりも正直5軒9人という集落の規模に驚いた。10年後、この過疎の集落は、そして残された作品はどうなっているのだろう。

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