兼松佳宏
PEOPLEText: Chiho Araki
「勉強家」として、同じような仲間や目標とする人、またはライバルはいるのでしょうか?
ライバルというわけではありませんが、『beの肩書き』の本にも登場する「発酵デザイナー」の小倉ヒラクさんに影響を受けています。以前、「スペシャリストになるまでには砂漠を歩かなくてはいけない」という話をしてくれて、それがいま身にしみているんです。最初はちやほやされるけど、専門性に踏み込んで行くに連れて、真価が問われるようになっていく。ヒラクさんは本を出版し、自分で研究室をつくったことで砂漠を脱しつつありますが、僕がいまいろいろ調べて書き続けている「空海とソーシャルデザイン」なんかはまさに砂漠の真っ只中なので、じっくり向き合っていきたいと思っています。
あとは、「勉強家」を名乗り始めたときにいちばん始めに「勉強家宣言」をまとめたのですが、そのときにモチーフとしたのは、イタリアの詩人フィリッポ・トンマーゾ・マリネッティの「未来派宣言」です。
100年以上前、貴族社会の支配から市民の力が沸き起こってきた。その象徴としての様々な技術革新があって、その時代に良くも悪くも、「争い以上に美しいものはない」とか「咆哮する自動車は《サモトラのニーケ》よりも美しい」とか、そういう宣言が喝采を浴びた。そしてその延長線上に、20世紀の大量生産や大量消費があり、それに伴う環境破壊へとつながったとすれば、一つの宣言であっても世の中を変えてしまう可能性がある。そこで僕はそれをもじって、
一. 美は唯、勉強に在り。
一. 勉強せし横顔は、samothrakoの勝利女神より美なり。
と言い換えてゆきたいと思っています。
「勉強家」と名乗り出したことで、何か大きな変化はありますか?
面白かったのが僕が「勉強家」と名乗り始めたら、『実は、わたしも勉強家だったんです。』とカミングアウトする人が出てきたことですね。「勉強家」って『あなた努力家だよね~』などと、人に言われることだと思うのですが、それを自分で名乗ることの妙、というか、面白さがあるのかもしれません。
あとはツイッターで中高生のフォロワーが増えました。勉強が好きな中高生って実は沢山いて、でも公には言えないみたいで、匿名で “勉強垢”(アカウント)を作って、「今日これだけノート頑張った」「数学頑張った」とか投稿して、励まし合っているんです。
「勉強家」の究極の目標は、勉強することをもっといいイメージにすることです。勉強嫌いな人は統計的にも多くて、「高校生の7割は勉強が嫌い」「社会人の一週間の平均勉強時間は5~10分」といったデータもあるようです。仕事が中心となってしまって、仕事以外のもの、純粋に自分の好奇心が湧くものに打ち込む時間はなかなかとれていないのが現状です。でも、自分が勝手にやっていたことが発展して仕事が生まれたら、それはひとつの達成感だと思うんです。準備中の段階から試行錯誤を仲間と共有することで、小さな一歩を祝福しあう、そんな関係性を育むワークショップもつくっていきたいと思っています。
例えば、子供が生まれたばかりの会社員だったら、「お父さん」という大事な部分を新しい商品開発に活かして、子育てに優しいまちづくりを提案するとか。ゆとりがないとイノベーションが生まれない、とよく言いますが、勉強はそのゆとりの部分にあたると思うんです。と、僕が言わなくても皆実はあれこれ勉強してるはずなんですよね。それをこっそりではなくて共有していけたらすごく面白いことが起こる確率が高まると思っています。
兼松さん自身に与えた影響はありますか?
正直に言えば、最初は自分自身を肯定するために「勉強家」を名乗り始めたんです。20代の頃は本当に何もかも中途半端で…。「デザインジャーナリスト」と名乗りながらも、連載は数本しかないし、本を出してるわけでもないし。「ウェブデザイナー」も、周りに勝てないと思って辞めました。その後「クリエイティブディレクター」とか「コンテンツディレクター」とか名乗ったものの、なんか違うなーと思って。自分を受け入れることができずに、いつも焦っていたように思います。
そうした時に友人が、『何でもそれなりにできるようになるってすごいことだよ。』『いろんな事を頑張れるところが兼松くんの魅力だよ。』と言ってくれて。アマチュアらしさがむしろ良いのだと気づき、アマチュアのプロになろう、勉強家を名乗ろうと思ったのです。そうして、編集経験ゼロで編集長になったり、大学院出てないのに大学で教えてたり。大学で教員をやることになった時も、『何を教えたらいいんですか?』と聞いたら、当たり前ですが『そこから考えてください。』と言われて。専門的な教育を受けていないので、独自にソーシャルデザイン教育というものを体系化していくしかない。最初は編集企画の作り方と研究テーマの決め方の違いも分かっていなかったですからね。
大学教員として手応えを感じ始めたのは、三年目に入ってからです。これまでを振り返ると、未経験であっても2~3年頑張ればそこそこできるようになる、ということが分かってきました。だから今は「勉強家」という「beの肩書き」さえあれば、海面から顔を出している島にあたる部分は今後何がきても大丈夫、と思えています。そのパチッとはまった感じが僕の人生にとって最大のターニングポイントでしたね。
「doの肩書き」は自分の経験値や環境で変わっていくものですが、「beの肩書き」も常にアップデートされていくものですか?
「beの肩書き」は、言葉遊びというか、あくまでメタファーなんです。「自分はこんな風な人です」って捉えやすくなるし、人に伝えやすくなる。心理学のセラピーでもメタファーはよく使われているのですが、例えば、今悩んでるクライアントさんが来て、その悩みを動物に例えてみてもらえませんか?とカウンセラーの人が聞く。そして『向こうから雨雲がやってきてドキドキしてるフクロウみたいな感じですかねぇ』などと自分の状況を例えて伝えた時に、『じゃあそのフクロウはどうやったら喜んで笑うと思いますか?』と尋ねてみる。こういうプロセスは専門用語で「外在化」と言いますが、「beの肩書き」も職業をメタファーとして外在化して自分と向き合う作業なんです。だからどんどん変わっていってもいいし、「勉強家」って名乗ってたけど、ずいぶん遠いところまで来たなぁ、みたいに、自分との距離感を測ってもいい。僕の「勉強家」はそろそろ10年経ちますが、もしかしたらそろそろ変わるのではないかという予感がしています。
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