高木正勝
PEOPLEText: Yasuharu Motomiya
新世代を代表するアーティストとして常に新たな地平を切り拓く、音楽家であり映像作家でもある高木正勝。東京では実に3年振りとなったコンサートを記録したライブアルバム「プライベート/パブリック」が、2007年5月3日にリリースとなる。 10名のミュージシャンと創りあげた優雅でかつ迫力のあるコンサートの音源を高木自身がミックス。単なるライブアルバムとは一線を画す、現在までの集大成かつ今後がうかがえる貴重な作品についてお話を伺う。
まず最初に、このアルバムの「プライベート/パブリック」というタイトルのことからお聞きしますが、非常に多くの作家が同じような悩みというか、独自性を保ちながらプライベート的な表現物にならないようどう回避しようか試行錯誤していると思うのですが、このタイトルはそれをストレートに表していて共感をもちました。初期の作品からこのようなテーマは常にあったのですか?またはここ最近なのでしょうか?
多くの作家と同じ様に、僕も初期の頃から何かしら普遍的なものを生み出したいという欲求がありました。7年以上、作品を作りながら生活していますが、それだけ続けていると、自分でも普遍的なものに近づいたと思える瞬間に出会えるものなんです。「神様が降ってきた」と言われる瞬間の事ですが、自分の意志とは別な力で動かされている様に、作品が作れたり、演奏ができたりするんです。「気がついたら良いものができていた」という感じで。
作品そのものよりも、そういう不思議な瞬間にずっと興味がありました。一般的には「作品を作る」=「自分を表現する」と思われている節がありますが、本当に良いものができる時は、自分の意志とはあまり関係がなかったりする。「作った」というより「作らされた」という感覚。だから、「これはどういう事なんだろう?」とずっと謎だったんです。
皆に分かってもらいたい、一緒に共有したいと思って作れば作る程、自分の中の作為的な部分が出てしまって、つまらないものが生まれる。逆に、自分を捨てて、意識や体を自由に動かしてやると、自分も他人も分かり合える感覚が生み出される。
僕にとっては、「プライベート」は「個人の感覚」だったり「個人の歴史」といった意味で、「パブリック」は「普遍的なもの」といった感じです。目の前に広がる普遍的なものには、努力しても触れられない。けれど、自分だけが知っている感覚を突き詰めていけば、普遍的なものにつながる細い道が見付かる。。。
素晴らしい活動をしている作家の方は、自然にこういう事をやっていると思いますが、自分も年齢を重ねた末、ようやく、自分が信じてきたものと真剣に向かい合わないと、と思う様になったみたいです。寄り道している場合じゃないなと。
そこで、今回はライブ音源をアルバムとしてリリースしましたが、もともと録音した音源をリリースする予定だったのか、それとも2006年10月に行われたライブからなにかしらの新しい感触を得てリリースしようと思い至ったのでしょうか?
上手くいったらリリースしようと思っていました。録画もしていたのでDVDも考えていたのですが、今回は、音源だけに集中する事にしました。CD用にミックスし直すだけでも大変でした。。。自分では、ライブCDを作ったというよりも、新しいオリジナルCDを作った気分です。通算10枚目のアルバムという事で、今までの活動に一区切りも打てましたし。
生楽器を中心として複数人で演奏することと、一人で行う演奏ではまったく表現の種類がかわってくると思いますが、高木さんにとっての違いがあれば教えてください。
リハーサルが済んで、本番まで辿り着けば、一人で演奏するのも皆で演奏するのも、そんなに違いはありませんでした。ミュージシャンの方達が作品を上手に理解してくれたお陰です。違いがあったのは、準備の段階でした。作品に必要な要素を説明するのに、楽譜に起こし直したり、イメージを伝える為に言葉を使うのは、思った以上に大変な作業でした。半年程、準備期間がありましたが、10名の演奏家がきちんと内容を理解できたのは、本番の最中だった気がします。
前の質問にかかりますが、今現在コンピューターミュージックを行っている人間にとってパフォーマンスという側面で、高木さんが行ったようなライブが一つの形だと思われますが他にアイディアなどがあれば教えてください。
楽器を使ってもコンピュータを使っても一緒だと思いますが、演奏そのものだけではなく、サウンドシステムや空間の事まで考えないと難しくなってきたと感じています。結局スピーカーを通して音を鳴らすし、空間で音の出方や感じ方が随分変わるので、自分の専門外と思っていた領域も知っていかないと駄目だなと思っています。すでに沢山の方が試されていますが、もっとそういう総合的な表現を味わってみたいです。
続きを読む ...