アヴァロン

THINGSText: Shinichi Ishikawa

今、一番必要なのは「深み」のある表現だと思う。「アヴァロン」の舞台として使われたポーランドの都市の光景は使い古された「東京」の姿よりずっと未来的にみえる。その質素な佇まいが僕たちに雄弁に語りかけてくれる。

シーンのほとんどがモノクローム調の画像処理がされていて、さびれた質感がある。それがオープニング・テロップの説明にある退廃的にゲームに熱中する若者たちの舞台としての雰囲気がよく表現されている。そんな世界で生きている主人公アッシュ(マウゴジャータ・フォレムニャック)が凄く良い。凄腕で、クールでストイックという性格設定は、前作「攻殻機動隊」の主人公に共通性を感じさせるが、監督好きするイメージなのだろうか。アッシュが最初にマスクをはずしてセリフをしゃべるシーン(いわば実質的なファーストシーン)で険しい目で戦闘ヘリを見上げるところは、実にハマっていてカッコ良い。同時に彼女の「強さ」もよく伝わってくる。押井守は過去にも、「紅い眼鏡」「ケルベロス地獄の番犬」などの実写監督作品がある。それらを観て僕は表現として、アニメでは簡単なのに実写では難しさを感じる押井守の一種のジレンマを多少感じていた。しかし「アヴァロン」では、外国での制作/テクノロジーなどによって、そのジレンマがかなり解消されたのではないだろうか。それはプレスシートにある「デジタルの地平で、全ての映画はアニメになる」というコメントからも感じられる。ただ、本作の魅力の本質はテクノロジーではない。テクノロジーというのはあくまで技術であり、それが高度な表現に結び付くとは限らない。

重要なのは押井守は常にキチンと人間を描いてきたということだろう。観る側の心を打つ良質の作品は常に、具体的にしろ、抽象的にしろ人間のドラマがなければならない。これは魅力的な作品に不可欠の条件だと思う。CGによる特殊効果や、戦闘ヘリコプターの現物の迫力は、作品の中に強力なイメージを与えるが、ただ、それはあくまでも脇役でしかない。作品全体に戦闘シーンを過剰に延々と描くのは、それが例え迫力満点だとしても、非常に浅いレベルの気持ち良さしか与えてくれない。もちろん、「攻殻機動隊」にしろ、本作「アヴァロン」にしろ、兵器メカニックに対して(音響効果も含めて)押井守は、大変なこだわりを持っているのが分かる。しかし、あくまで主役は「人間」なのであり、だから本作でもアクションシーンもこだわりながらも密度を高く最小限に抑えられ作品全体の良いバランスが取られている。

アッシュがゲームで金を稼ぎ、食料を買って、電車で一人住まいの家に帰って飼い犬にごはんを食べさせる。たまに知人と出会う。そういう日常的なシーンが重要だといえる。本作の見せ場は「日常」。それらがないと単なるセンスの良いヴァーチャルゲームのプロモーション作品になってしまう。そんなものを喜べるのは一部のマニアにすぎない。なぜ日常を描くのか?それは映画のスクリーンと観る側の距離を縮める役割を果たすからだ。なぜ、縮める必要があるのか?それは「アヴァロン」の世界は、僕達の世界に繋がっているからである。日常というのは学生にしろ、社会人にしろ、無職にしろ自分で思っているより複雑なものではない。紙に書き出せば数行でおさまるのではないか。それが現実であり、そしてそれは本当に現実なのか、何を現実と思えばいいのか、そんな現実認識の大切さが本作から伝わってくる。僕たちは「事象に惑わされず」「自分の(現実)フィールド」を見つけなければならない。そんなセリフが観ている側にも伝わってくると感じることができた。

テクロノジーの発達によって映像作家の頭の中のイメージが、損なうことなく、完全に近い状態で映像化される方向性、つまりあくまでもテクノロジーを道具/手段として使うことによって、より「深み」のある表現に達した「アヴァロン」は押井守のセンスをとりこぼすことなく発揮されているひとつの成果が感じられた。先に書いた通り地味な「日常」のシーンほど注目してもらいたい。そこには間違い無く息も抜けない押井守の作家性が隠されているのが分かるだろう。

続きを読む ...

【ボランティア募集】翻訳・編集ライターを募集中です。詳細はメールでお問い合わせください。
鈴木将弘
MoMA STORE