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山戸結希

PEOPLEText: Eri Yamauchi

監督の作品では夕暮れや夜の長回しのシーンが印象的で、その分明るいシーンとの差も強烈でした。暗いシーンが多いのは何か理由がありますか?

特に初期は、どうしても物理的にそうなってしまうという部分があると同時に、暗い場面に、すごく惹かれる何かがあります。光は作れるのに、影は逆説的にしか作られないという部分でしょうか。

先ほど言っていた外部性や異物感にも通じますね。俳優の演技に関してもやはり意外性を求めていますか?演技指導などはどの程度やるのでしょうか?

作品ごと、というより、主演に誰を迎えるかによって、どんどん変わっていますね。ただ、目の前の人に尽くすことだけを考えていました。

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「あの娘が海辺で踊ってる」 © 上智映画研究会 2012

「あの娘~」は、テレビなどで観る整理された映像とは違って、面白いアングルで撮ったシーンやブレが多く、他の映画よりもリアリティがあると感じました。

今スクリーンで見返すと、すごい変な角度で撮っていて、あの時の自分はいったい何を考えていたのだと思います(笑)。足湯のシーンの撮影ではおばちゃんにすごく怒られたり、それが画面に入ってたり(笑)。とにかく撮るしかなくて、現場では思考停止状態になってました。でもなぜか、観てくれた方の感想では好評で、不思議ですね。

最近は雑誌に文章を寄稿したりポエトリーリーディングをしたり、文章の面でも表現活動をされているようですね。改めて、映画と文章の違いはなのだと思いますか?また、その表現活動の広がりは映画に影響していきそうですか?

映画と文章の違いは、一番は主語の違いですね。文章だと主語を請負うのは必然的に書いている一人の作家ですが、やはり映画は自分以外の肉体に一人称を仮託するという感覚が一番面白いですね。映画という表現の持っている多重性に惹かれます。

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「Her Res~出会いめぐる三分間の諮問3本立て」 © 2012 寝具劇団

ちょっと話題がずれるかもしれませんが、最近は、演劇畑などのほかのメディアで活躍していた人が小説を書いたりすることが多いですが、そういう人たちが人称の問題にすごくこだわることに共感しますね。小説の外の表現ジャンルから言葉の世界に回帰する人は、言葉においても、人称によって世界を拡張したいという願望があるのだと思います。
映画を撮る前と今の文章で違うのは、文章の中で完結するのではなく、外に繋がっていく、「接続する先」を見つけて行ける文章を書きたいと思っているところでしょうか。

「接続する先」の話につながるのですが、東京での「あの娘~」の上映会ではステージの横から俳優さんを登場させ、演劇もやりました。大学生の時は映画も好きでよく観に行っていましたが、終わった後に生身の出演者が「出演させていただいた○○です」みたいな普通の挨拶をするのはつまらないなと感じていかもしれません。たとえば終演後の挨拶でも役者に用意していた台詞を言ってもらったり、物語を拡張させるような要素を用意してスクリーンの中と外を世界をパラレルにさせた方が面白いし、そうしたいなと思っていましたね。

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