ブラインド・デイト

HAPPENINGText: Yasuharu Motomiya

その、広くて、微音、少し混乱したスペースをダンサーの和田淳子は踊りながら一人悠々自適な旅を続けているように見える。

現代舞踏をみていると、一見形にとらわれていないようでいてとても不自由な制限されている印象を受けていたが、この時ほどダンスを見ていて自由な印象を持ったことは無かった。即興ということもあるだろうが、それだけではない。多分、彼女は自分の視覚を奪われることによって、同時に観客の視線からも解放されていたのだろう。目が見えない上に動き回るという行為は一番危険な印象を持つが、見ているほうからすると一番安心していられるのが不思議であった。動き回ることの無い、ミュージシャンたちの方が危うい印象を持った。


© Manograph

こういった環境の中で一人目隠しをしていない小金沢氏は、ラジカセを片手に動き回る。いったい何をしているのだろうと、注意をして見ていると、演奏者の近くに行ってテープを回したりとめたり、またその場所にあったラジカセを別の場所に持っていったりしている。

どうも、録音・再生を繰り返しているようだ。お互い離れ離れで演奏しなければならない演者はお互いの位置を音で判断しなければならないが一つ一つが小さな音なので、それだけでもとても確認が困難になる。そのうえ、小金沢氏が遠い演者の音を録音し近くに持っていき再生すると、ただでさえ危うい演者の空間感覚はこちらから見ていても混乱してしまっていただろう。そういった、演出も非常に面白いものであった。

時々、小金沢氏は美術館の外までラジカセを持ち録音・再生をし動き回る。室内という空間から飛び出し、外の環境まで取り入れようとしているようだ。彼にとって、地球上に存在する音全てが素材なのだろう。別に新しくない考え方だが、それを観客により分かりやすい形で表現しているところが興味深かった。

彼のビデオ作品の中に、「物音」− 身の回りの物を使い音を出し遊ぶ − をコンセプトにした作品がある。スクリーンを三面使い、一つ一つ違った映像を流す。その一つ一つの映像は身の回りにあるブロダクトや食品などであり、それを擦ったり、折ったり、引っかいたりした音が同時に録音してある。そして、全ての映像のBPMは120。同期しているのだ。それを3つのスクリーンを使いオーディオ・ビジュアル・ミックスする。少しづつずれていく三つのループを組み合わせることによって様々なリズムが生まれるというものだ。この作品は作者のアイディアとユーモア、労力がつまった素晴らしい作品であった。アメリカなどでも発表したようで、日本での公開が待ち望まれる。

この様なことからも、小金沢氏の音と映像とに対する並々ならぬ傾倒が伺える。そういったものに加味して今回は近年、問題として切実になっていったという、即興という要素も加味していったようだ。

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