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パリのテクノ・パレード

HAPPENINGText: Guillaume Ollendorff

昔からある論争だが、マスメディアやくだらないテレビ番組、ビールのスポンサーなどがアンダーグラウンドムーブメントに興味を抱いてしまった今、それがいまだに面白いムーブメントだと言えるのだろうか?今それがつまらないと言うのは、恥ずかしいことだろうか?全てのポップアートの形の解決策は、どこにあるのだろうか?ジェームスディーンのように早死にするのか?それともメディアと共に生き続けるのか?

テクノは、そのポップな性質によって消滅する運命にある。テクノが生き残るためには自滅する必要があるのだ。フリーのパーティーがそのいい例だ。もはやパーティーではなく、ただの政策でしかない。いいレイブをするためには、レイブをなくさなければならない。今言えるのは、僕にとってのテクノは、死んだということ。音楽が好きで、音楽を好きな人達も好きだ。今も面白いムーブメントだったと思っているが、そのムーブメントのアイディアは、それ自体くだらないものだ。テクノパレードが全てで、僕達の洋服や買う物、広告デザインなど、至る所にテクノが存在する。

テクノは、もはやレコードの中には存在しない。パリで開催される200フランの大規模なパーティーで、15歳の少女がドラッグをキメている。昔は良かったと言っているのではない。ただ、そのパーティーに参加するためにそういう風にはなりたくないと言っているだけだ。

現在、国家や文化という考えは、消滅してしまった。今エレクトロは、ライフスタイルではなく、ただの道具になってしまった。テクノパレードは、確かに面白い。それは、テクノの解放であり、パリのストリートカルチャーの誕生だ。ものすごい数の人達とサウンドシステム。マーケティング調査の集合体だ。

ファンダシオン・カルティエの話題に移ることにしよう。ポップカルチャーは、今ミュージアムにある。インスタレーションでも美しいロボットを見ることができる。 ロビイや火星に住むネズミもいた。それらのものは、オーディエンスから嫌われている。ロックンロール過ぎるから?商業的だから?いや、違う。障壁からかけ離れたそのもの自体だ。ギターがなぜダメなのだ?

ルーブル美術館でもポップカルチャーを見ることができる。オーディトリアムでは、トマス・コナーがディープなエレクトロミュージックとノイズをプレイし、1906年の日本映画が特種効果付きで上映されている。サムライが巨大なカエルに変身して敵を食べてしまうという、セピア色の映画だ。2本目の映画は、ペインティングによって色付けされた、キリスト映画。1900年代のフランス人俳優が口ひげを生やして昔のパレスチナ人を演じていて、くだらなくて安っぽい、ばかばかしい映画だ。どこにでもあって、ポップじゃないアートのノスタルジアを感じさせてくれる。

バトファーについては前にも書いたが、すごく古い印刷機を使ったライブ/シンフォニーが開催される予定だ。2人の男が印刷機にマイクを付け、文字を印刷することのできる別のコンピューターとミックスする。ポップな場所でのコンテンポラリーアート。壁がなくなり始めている。

近代美術館で開催された池田亮司とMEGOのパーティーは、見逃してしまった。次回を楽しみにしよう。

Text: Guillaume Ollendorff
Translation: Mayumi Kaneko

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