DJ エドゾン

PEOPLEText: Ania Markham

一軒家をひとつ借りて、友達とシェアしながら生活する、という状態を想像したことがあるだろうか?あるいは、あなたの趣味が生活そのものだったら、どのような気持ちになるだろう?今回紹介するのは、私達にとっては、そんな夢のような生活している、DJエドゾンの話。

生っ粋のアムステルダムっ子のエドゾンは、地元では、伝説的ヒップホップショップ、ファット・ビーツのオーナーとして有名だ。また、彼の卓越したスピニングの技術は世界的にも認められており、ドイツ、チェコ、ロンドン、アメリカなどでもパフォーマンスを行うほど。オランダでも、ヒップホップバー、デ・デュイヴェルで定期的にプレイを続ける他、キンクFMから毎週木曜日夜に放送されている「ヒップホップ120」という番組をレギュラーとして担当。ベストミックスのテープもプロデュースしており、こちらはヨーロッパで入手可能だ。

そんなエドゾンが所有する巨大ビルがあるのが、中央駅の目の前。『このビルは、6世帯が生活できるように設計されていて、僕と妻、そして娘がその内のメインスペースを使っています。残りの部屋は、友人達に貸し出しています。ひとつ屋根の下に暮らす人たちが、気心知れた友達ばかりだから、ひとつの大家族みたいで、なかなか快適ですよ』とエドゾンは語る。ビルの背後には裏庭もあり、晴れた日には、窓という窓は全て開け放ってしまうという。そこからは、ビニールでできた泥棒の人形や、友人のスニーカーコレクションを楽しむことができるのだが、夏にはやはり、バーベキューがメインイベントらしい。

『僕のやること全てが音楽と結びついていて、趣味でもある。そしてその趣味で僕はお金を稼ぎ、旅をするという生活を送っています。生活そのものが、ひとつの大きな夢というか…。子供がいて、きれいな奥さんがいて、大きい家もあり、そして今は、このインタビューに答えている。2本の腕と、2本の脚があるのが、今の僕自身です。そんな僕なのに、人は「エドゾンは31歳の黒人で、結構いい音楽作ってるんだよ。彼のパフォーマンスのチケット欲しいな」と言ってくれる。こんな状況、16や20歳の頃は、絶対に想像できませんでした』。

エドゾンが生まれたのは、アムステルダムの東の地域。その後、市内を点々としたが、南米北東部の共和国、スリナム出身の両親の下、すくすくと成長した。『十代の頃はよく、ヨルダーンという地域をウロついてましたね。いろんな人がいて、いろんな言葉があちこちから聞こえてきて、すごく刺激的な場所でした』。

時代は80年代後半。アムステルダムのヒップホップシーンが、徐々にその熱を増して来た時期だ。『その頃の僕は、他のティーンエイジャーと似たり寄ったりの子供で、何かあれば、すぐに何でもかんでも脚を突っ込んでましたね。ダンスも、ビートボックスも、それにスプレー缶を使ってグラフィティを描いたりもしてました。物事に境界線なんかなかったし、躊躇するという気持ちさえも僕の中にはありませんでした。そういう子供は僕だけじゃなく、みんながそうでしたね。その中でも僕達が特に影響を受けたのが、ロンドンという街でした』。

そしてエドゾンが、彼のそのスピニングの技術やミックスで、その名を世間に広めたのが、90年代初頭のことだ。『その頃は、バイブという服屋さんで、毎週土曜日のプレイを始めた時期でした。バイブにはターンテーブルがあって、僕はそのテーブルを、僕のだ!って言い張ってましたね。そこでのパフォーマンスをバイブのスタッフのクライドが認めてくれて、現在行っている、ヒップホップバー「デ・デュイヴェル」での定期的はプレイの話が決まりました。スピニングを始めたのも、バイブからでした。気づいたらレギュラーで回すようになっていて、そうしているうちに、みんなが僕の事を知ってくれたといった感じです』。そして彼のファースト・ミックス・テープを最初に取り上げてくれたのが、オランダの中でもカルト的なラジオ番組「フィラ65・ダッチ・マスターズ」だ。『フィラ65は、ラップ音楽を流すラジオ番組としては最高でしたよ。司会者同士の相性が良かったんでしょうね。みんなが聴いていた番組でした』。

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