ヤーノシュ・コーシャ展「画家とロボット」

HAPPENINGText: Mark Griffith

これを面白くしているものは、多くの意味でハンガリーが、コンピューターに熱中した20世紀の真ん中にいたという点。おそらく、アラン・チューリングと同じくらい重要なこととして、ハンガリー人数学者、ヤーノシュ・フォン・ノイマンが、プリンストン高等研究所で1940年代にエニアック(アメリカで開発された黎明期の電子計算機)の後継となる初期型コンピュータ開発プロジェクトを立ち上げたことがあげられる。

ノイマンの、メモリを処理ユニットの外側に入れるという提案は、1980年のスーパーコンピューターと平行処理の時代までほとんどのコンピューターのデザインを形成し、現行の多くのコンピューターの構造に影響を与え続けている。ハンガリーは、その言語の衒学的な文法や、数学に焦点を置いた教育システムに関わらず、いまだ多くのプログラマーを生み出している。コーシャは、そのどれでもない。彼はそう思い込んでいるのだ。


Mystery of Design, János Kósa, 2000, Painting, oil on canvas, 180 × 180 cm, Collection: Hungarian National Gallery

これら強烈で派生的な絵画は、コーシャが意図した暖かさや感情とコンピューターの冷淡さや非人間性の対比を目的としている。だが、それらを良く見てみると、何か他のことが起こっているのが分かる。

彼の描く人間のキャラクターは、堅苦しく陳腐だ。それらの視覚的イメージが、私達の感情の中に退屈なイメージの集まりの中に佇む人間性と感情を呼び起こすと考えられている。彼の絵画の中の人々は、彼が嫌い恐れるコンピューター装置の中のコードと同じく、生気のないシンボルなのだ。

各絵画の中で表現されている、コンピューターがいかに人間の人間性を奪っているかという主張は、私達に疑いを抱かせる。もしコーシャが絵画の中で人間と非人間の対比を意図していなかったら、あるいは、もし彼がコンピューターの冷淡さを歴史的な人間性の賞賛の中に組み込もうとしなかったら、彼の絵画はより困惑するものになっただろう。魅力的な若い女性は、はっきりと私達にとって魅力的に見えることを意図し、彼等が実際そうであるように退屈で平均的には見せていないのだ。


Drawing, János Kósa, 2000

もしその対比が人間対機械の対比を意図しているとすれば、私達は、なぜ人間がそれほどまでに機械的で面白みがなく模倣的に描かれているのだろうか、と疑問を抱かずにはいられない。コーシャは、間違いなくメッセージを持っている。だが、それは目に見えるメッセージではないのだ。

これら絵画は、ヤーノシュ・コーシャにもう一つの人生があったとしたら、彼は画家ではなく機械コードのスクリプトの専門家になっていたであろうと私に語りかける。それら文学的、動詞的な絵画を見るにつけ、なぜハンガリーがビジュアルアートに弱く、数学やコンピューター自体など、直線的な考え方に強いのかという理由が見えてくる。

この展覧会を見る価値のあるものにしているのは、作品が直線的なものと視覚的なものの違いを表現している点だ。コーシャが私達に伝えたかったことよりも多くの興味深いことを感じることができた。

János Kósa “Painter – Robots”
会期:2001年3月2日(金)〜4月28日(土)
会場:Deak Erika gallery
住所:Budapest, Mozsár u. 1, 1066 Budapest, Hungary
TEL:+36 1 201 3740
https://www.deakerikagaleria.hu

Text: Mark Griffith
Translation: Mayumi Kaneko

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